彗星のてんぷら

あげたての星からはイマージュの匂いがする

ドストエフスキー中短編のススメ

はじめに

 2021年末、ドストエフスキー生誕百年を迎え充実した一年を過ごしたわたしは「我々は約束された勝利のドストエフスキーオタク!」と歓喜を全身にまとい幸福に胸を震わせ高らかに右手を天に突き立てたのだが、年明け早々その背後で爆風が起こり、ロシアのウクライナ侵略を伝える報道がテレビから流れ続けるようになった。

 長年思い入れを込めていた国がこの二十一世紀に侵略戦争を続けていること、その凄惨さ、自分の無力さを思うと今でもすうっと身体の感覚が遠くなる。今回の侵略戦争でわたし自身が理解したのは、戦争というのはどんなときも市民の命や生活や経済がまず一番軽んじられ、奪われていくということ、そして互いに憎しみ合うよう設計されたプロバガンダの渦に否応なく巻き込まれていくということだ。

 開戦当時、細切れに付けていた日記を見ると、意気消沈し、無力感に押しつぶされた自分のぼそぼそとした声が聞こえてくるようである。ロシアに関するあらゆるを敵視、回避する傾向が現実でもSNSでも漂い始めていた。その様子を見ながら、ロシアの人々の気持ちや歴史や文化を一緒くたにして憎み、閉め出すことは今取るべき態度では無いと思いながらも、ウクライナ侵略の許しがたい凄惨な状態、プーチンの信じられない言説はニュースで流れ続け、わたしは疲弊していった。

 もう自分は、文学を通じて感じていたロシアへの思い入れを失うかも知れない。口を噤んでいるうちに、切り離すことの容易さを受け入れてしまうかも知れない。この閉塞感と絶望感に、自分がずっと耐えられるか分からない。

 一時は本当にそう思った。

 しかし、沈み込んでいたわたしの背をさすり、声を励まして言葉をかけてくれたのもまた、ロシア国内で逮捕される危険を冒しつつも「戦争反対!」と叫ぶ人々の姿、プーチンを厳しく批判する露文学作家の言葉、あらゆる記事をPDFにして添付しメールで言葉をかけ続けてくれた親交のある露文学者、また彼らの書いた書籍から放たれる言葉だった。

 

 

 奈倉氏の本にも、本当に救われた。

 本書は奈倉氏がロシア文学を研究しつつロシアに滞在していた頃のエッセイなのだが、海外文学を胸に抱き、わたしたちが外の世界と出会って交流すること、胸に宿る美しいともしびを求め、愛しながら生きる幸福を教えてくれる一冊だった。

 人文学なんて役に立たない。

 という言葉が如何に役に立たないか、ということが良く分かった一年だったと思う。われわれ人間が個人の感情や欲求からまったく切り離されて自動的に生きる世界が来ない限り、人文学というのは必要であろう。あらゆる歴史と過ちの上に今日があり、今なお可視化すらされていない酷い問題が山のようにあり、そのなかでもわたしたちは目を瞑って十秒数えれば、十秒後の未来の世界に立っている。だからこそ、この世の大きなリレーをつなぐ最先端走者として、今世界で一番あたらしく生きる人間として、否応にも生きていかなければならないわたしたちの指針、羅針盤として機能し得るのが、きっと人文学なのだろう。

 

ドストエフスキー中短編のススメ

 話が長い。だが、今年ドストエフスキーに触れるにあたっては、やはりロシアのウクライナ侵略をなしにして述べることは出来ない。開戦当初は『作家の日記』の一文を取り出して「このようにドストエフスキーも今回の戦争を応援しています」等と権力者にいいように引用されたりと散々な目にも遭った。テクストを恣意的にねじ曲げて取り込んでしまう大罪を再確認し、精密に真摯にそれと向き合うことの大切さもまた学んだように思う。なお今更だが本稿の主旨は、今年読んだドストエフスキーの中短編の幾らかを紹介するというものである。

 

 思ったのだが、ドストエフスキーと聞いて、なぜ多くの人は『罪と罰』から手を付けてしまうのだろうか。確かに、罪と罰が名作であることは間違いない。しかし、書店の夏フェアで購入したものの、老婆が死ぬまでに現実の夏休みが十回終わったという話はよく聞くし、わたしも初読時は面白いと思えるまで時間が掛かった。また『カラマーゾフの兄弟』が素晴らしい作品なのは言うべくもないが、わたし自身初読時は「大審問官」で三回寝たし、大好きな本読み人の「世界文学において最高峰の兄弟BL小説といって過言ではない」という言説を信じ切れなかったら途中で挫折していただろう。

 世の中には看板作品というものがある。とはいえ、THE BLUE HEARTSは『リンダリンダ』だけでなく、thee michelle gun elephantは『ゲット・アップ・ルーシー』だけでなく、L'Arc-en-Cielは『HONEY』だけでない。「リンダリンダ」にあんまりピンと来ないからもう一生ブルーハーツ聞かなくていいや、と誰かが言ったとき、ブルーハーツファンのあなたは「待て待て待てよ」と思わず言うのではないだろうか。ということで、ドストエフスキーにも中短編で面白い作品はあるので、それらを手始めに読み進めてみるのも良いように思う。

 

『やさしい女』

 わたしのフォロイーさんが一冊だけドストエフスキーを読んでくれる、というのならお薦めしたいのは、短編小説『やさしい女』である。(柔和な女、とも題される)

 わたしはかねてよりドストエフスキーの書く、情熱的でやさしくて死ぬほど身勝手で頑固な女たちが大好きなのだが、本作はフェミニズム小説として今再評価されるべきでは無いかと思うほどによかった。

 本作は、傍若無人でミソジストでキモいおっさんの一人称文体で、自分の妻となった若い女との生活を綴った小説である。ドストエフスキーはとりわけ貧困や身分など、社会的地位が低く、声を奪われてきた存在をまなざす胆力があるのだが、そこに女という存在もしっかり入れる作家ではないだろうかと思う。語り部の酷く歪んだ語りからすり抜けていく側面、女の感じていた苦痛や絶望感が「書かれない」ことによって生々しくに表現されているようにすら感じられる。まじですごくいい、おすすめです。

 

『百夜』

 『白夜』も昨日読み終えたばかりなのだが、すごくよかった。百ページくらい短編でありながら、ずっと心に残り続けるようなロマンチックさと滑稽なほどのしょっぱさが混合し、それが美しい人生の歓喜にまで高められている初期の名作である。この物語に『白夜』というタイトルを付けたドストエフスキーのロマンチック野郎っぷりが、ほとほと堪らない(すき)。

 なお、わたしは奈倉氏が『白夜』を訳しているときいて集英社文庫の『ポケットマスターピース』シリーズを購入したのだが、現代的でみずみずしく、主人公もヒロインも可愛くてものすごく良い翻訳だった。わたしに奈倉さんのドストエフスキーをもっと読ませてください、後生ですから。

 

『貧しき人々』

 ドストエフスキーのデビュー作で、発表当時ものすごく人気があった作品である。

 小役人の初老のおっさんマカールと、隣家に住む18歳くらいの少女との書簡体小説で、二人の精神的交流や社会のままならなさ、声を奪われる弱者の存在を描いたヒューマニズム小説である。

 このおっさんマカールは実は少女ワルワーラのことを愛しており、とは言え擁護者としての対面もあり赤裸々に自らの気持ちを「手紙」に書き綴ることができない。その秘めたる情熱がおっさん構文を介して紆余曲折しているさまと、夢見がちな善人マカールよりも遙かに聡明で現実主義なワルワーラとの対比を見るのも面白かった。2022年の今、おっさんの少女に対する恋愛ものなど死んでも読みたくないのだが、マカールがキモさを内包しつつも極めて礼儀正しく、ピュアで傷つきやすく善良でなによりミソジニーを内包していないので、読み耐えうることが出来るし、これがなかなか面白いのである。

 発表当初はヒューマニズム小説として称讃を受けたが、いま読むとマカールとワルワーラとの間にも幾らかの緊張関係があることや、当時のペテフブルグの様子を精密に描いた社会派な部分等も見えてきて、奥深い作品である。なお光文社の安岡氏の翻訳で読んだ。光文社は、ドストエフスキーの長編は亀山氏、中短編は安岡氏に主に翻訳を任せているようであるが、安岡氏の翻訳はとても読みやすく綺麗なので良い感じである。

 

『二重人格』(分身)

 ドストエフスキー『分身』を面白く読める人間は、一種の変態と言わざると得ないが、わたしは変態なのでめちゃくちゃ面白く読んでしまった。

 主人公は果てしなく陰キャを煮詰めたような小役人ゴリャートキンで、或る日、彼の目の前に自分と瓜二つの人間が現れるという話である。そしてこの新ゴリャートキンというのが、本体と違って極めて陽気で面白く、仕事もできるのだ。わたしは人間を陰キャ陽キャという括りで二分するのを好まないが、それでも読みながら「陰キャの悪夢のような小説だな」とほくそ笑んでしまった。会社の上司も部下も親友も、軒並み皆はあっという間に新ゴリャートキンにメロメロになり、本体ゴリャートキンは置いてけぼりを食らう。『分身』の筋をラノベ風にいうのなら「陰キャの僕が陽キャの僕に人生を寝取られるなんてそんなの絶対許せない」みたいな感じになるだろう。

 不条理な描写、筋のわからなさ、語り部の揺れなど十九世紀の実写主義の小説界からすれば極めて外道的作品であり、めちゃくちゃ不評で叩かれ捲ったらしいが、今読むと色々な「実験」をドストエフスキーが試みていたことが分かるし、また新しさも発見できる。更に、後期の作品に顕著に表れてくる命題や構成の卵というべきアイデアもいろいろ隠されていて、オタクとしてはそう言う要素を見つけるのも面白い。

 主人公ゴリャートキンは好感度が限りなく低く、また美しくもないおっさんなのだが、まったく同じ姿といわれている新ゴリャートキンはいつの間にか足が五メートルくらいある美青年に脳内変換されたりして不思議である。

 なお参考として、小沼氏の翻訳はとにかく古く、読みにくい。以前この本で読書会を行ったとき、「現在、出回っている『分身(二重人格)』の改編前の作品が存在し、そちらのほうがまだ分かりやすいし面白いので、そのタイプを若々しい翻訳でやりなおしたら良いかもしれない」という意見が出たのだが、全くの同意だし、とても読んでみたいと思う。

 

      ※

 

 

 ロシアの大文豪ドストエフスキーを偏愛する自分として、なぜ自分が海外文学を読むのか、その意味は何なのかといった極めて個人的な問題に直面せざるを得ない一年だった。非常に辛く、また今も辛いが、今こうして誰かに向けて自分の好きなロシアの作家について語ろうと思えていることは幸いだ。わたしは彼の文学からあまりに大きなものを受け取ってきた。ならば、その受け取ったものを通じて社会を眼差し、否と感じるものには「否!」と言い続けれなければならない。それが今、わたしが出来うることだと思う。

 新しい一年の足音が既に聞こえ始めている。2023年、兎にも角にも、紛争が一刻も早く終わることを願って自分に出来ることをやるしかない。あらゆる連帯の声に励まされ、わたしもその声のなかの一つになりたい。そしてまたわたしは、わたしに多くを与えてくれるロシア文学を紐解こう。