彗星のてんぷら

あげたての星からはイマージュの匂いがする

アメと豊潤(果樹園SF)

旧世民法第八十八条(天然果実及び法定果実
 一、物ノ用法ニ従イ収取スル産出物ヲ天然果実トスル。
 二、物ノ使用ノ対価トシテ受ケルベキ金銭ソノ他ノ物ヲ法定果実トスル。
                                
 
 
 
 ステーションに煌びやかな車体が到着し、彼女は腰を上げる。人気沸騰中のハヌェル化粧品のパッケージ車は、渋深緑の車体と傍土呂(ぼうどろ)の花弁が印象的だ。目の醒めるような朱色の花々はステンドグラス調になっていて、今季新作のリップタントと同モデルらしかった。
 ピンを飛ばして三両目の空きを確認すると、彼女はドアから身を滑り込ませる。路線図から目的地を指定する。パネルが到着まで四十五分かかると告げてきた。端末で調べて知っていたが、彼女は改めて憤慨する。
 こんなバスに閉じ込められて移動せずとも、配信で視聴できるはずだ。
「それがさあ、できないんだよね」
 アメはさも悔しくて堪らない、という調子でストローを振った。薄モモ色に染められた前髪が、完璧な角度で額に落ちている。三日前に変えたばかりの髪色をアメは気に入っているらしく、実際よく似合っていた。お馴染みのカットカチューシャさえ誂えたようだ。――バスの座席に身を預けた彼女は、昨日の通話を思い出している。
「声優が違うの。配信と円盤に落ちてなくてさ、当時のフィルム番組が独自でアフレコさせたやつのが見たくて」
「見るのはアメじゃない」
「なんだけど! レイが絶対それが良いって言うんだもん、何か息継ぎ? 舌をチッて鳴らすやつ? 分からんけど、その声優の細かい演技がすごいらしい」
「旧フィルムオタクなのに、吹き替え推しなんだね、レイは」
 恋人の名前をゆっくり発音して嫌味に言ったつもりだったが、アメには通じなかった。アメは大きな目を見開くと、我が意を得たり、という表情で頷いた。
「声優にも敬意を払ってるんだって。それにオリジナル版は、今度一緒に観ようって」
 あっそ。
 ディスプレイにピンが打たれる。件の稀少メディアが貯蔵されている場所の住所だった。リンクを開いた彼女は思わず仰け反った。
「遠っ」
「ギナミさあ、ヘシア果樹園に行きたいって言ってなかった? 結構前だけどお。アメなんか記憶あるっぽい、言ってたよね?」
「知らん……」
 彼女は胃の底から声を出したが、ピンを送った時点で彼女が行くと確信したらしいアメは、膝の上にやってきた小動物を構い始めている。毛並みに指を入れながらアメは、週末にはレイに会うから、それまでには欲しいかも、と言った。あっ、でも覚えるのにアメ時間掛かるから、なるべく早めがいいかな?
 いったい、何なんだこの人間は。
 彼女は、苦虫を三十匹まとめて噛み殺した表情になる。アメと話すと、いつもそうだった。アメの身勝手とペースを押しつけられる。
 停車の案内が流れる。他の乗客が指定したステーションに着いたらしい。パネルを確認すると、まだ五駅しか進んでいなかった。
 休日が潰れていく無音に、彼女は耳を澄ます。やわらかさに指の腹を押し当てて、台無しにしていくのと似ている振動。四十五分後には、自分の身体は果樹園に収まっていて、そこで四時間もある旧世代のフィルムを鑑賞する。そのあと、また数時間かけて五千字程度の原稿を執筆する。
 報酬を二倍もらっても良いくらいだ、と彼女は思う。既に暴利に等しい金額を取っているつもりだが、それでも納得がいかない。
 
 
 彼女は副業のことを「流し屋」と呼んでいる。古い呼び方なら、ゴーストライターと言うのかも知れなかったが、ライターと呼べるほどのものではない。彼女が売り物にしているのは、いわゆるメディアに対する「素人の感想」で、買い手もごく普通の一般人である。
 ソーシャルネットワークにまつわるヒエラルキーは、その発足時から存在していたらしい。人間が端末から離れられなくなって一世紀以上経つ今日にあっても、マイナーコミュニティで注目を集めたり、一目置かれることに拘りを持つ者は多かった。コミュニティは細分化されているが、彼女が主に扱うのは娯楽メディアの分野である。新作、旧世代、古典に関わらず、メディアの「感想」をうまく語る行為は、有益なパワーになり得るらしい。だが当然、言語化には得手不得手がある。彼女は、その不得手な人々に、自分の「感想」を売りさばくのだ。ヤクザな仕事だと自覚しているが、買う方もどうかしているので良心が痛んだことはない。
「そういうの、虚しくない?」
 二つ年下の兄弟にあたるワダは、彼女の副業を知ったとき身を震わせた。ワダは彼女に比べて、常識的で善良だった。
「虚しくない。メディアからすれば、語られる口がどれであろうと関係ないんだよね。文化資産としての評価はさ、とにかく語られることが大切だから。それに、私の所感に別の誰かの名札が付いたとして、私が受け取ったものは無にならない。何の問題ないよ」
「究極のオタク発想でこわい。友達、作ったら?」
 唯一の友達の依頼から始まった話だ、ということを彼女は説明しなかった。話せば、ますますワダは怖気立つだろう。
 アメは、スクールのときの同級生だ。当時は、互いの顔を知っている程度だった。アメは誰とでも仲が良く、ほとんど授業にログインしない彼女にまで気を回している余裕がなかった。親しくなったのは、スクール卒業後、彼女が働くドリンクスタンドにアメが客として来るようになってからだった。注文のドリンクを作っている彼女に向かってアメは「あっ、顔見たことある」「リアルで会うの初かも」「知ってる人がいるとうれしい。毎日来よっかなあ」と、歯を見せて笑った。そして実際、毎日来た。上級技師の資格試験に向けて、アメは一日九時間ドリンクスタンドで勉強した。根負けした店長は、アメのために月額会員制を始めた。彼女はピスタチオペーストにヒナミルクを混ぜ込みながら、密かに感嘆の念を膨らませた。アメは粘り強かった。
 アメの粘り強さは恋愛面でも発揮された。アメは気になる相手がいると必ず交際まで持ち込んだ。自由に振る舞っているように見えて、相手が何を欲しがっているのか察する能力は高かった。好きな相手が出来るごとに、アメは髪型も洋服も全部変わった。自分の着たい服とかないわけ、と二週間前に変えたばかりの髪色をまた変えたアメが目の前に現れたとき、彼女は口の端を歪めたが、アメは「相手が喜んで褒めてくれるやつが好きなの、アメ何でも似合うから」と事もなげに言った。確かに、どんな格好でもアメが最高でなかったことなどなかった。
 最近、職場に入ってきたレイが気になる、でも上手く喋れない、とアメが相談してきたのは半年前のことだ。彼女とアメは華覧街で新しく発売された化粧品を見たあと、屋台に座って水飴を飲んでいるところだった。
「レイ、旧フィルムの鑑賞が趣味なんだって。渋くない? だけどアメ、メディア詳しくないから不利すぎる」
「不利って?」
「このあいだちょっと話したら、一緒にメディアとか見れる人が良いんだって!」
 アメは、レイが好きだという幾つかの古いフィルムの名を挙げて、知っているかと訊いてきた。スクールに顔を出していなかった時期、古今のメディアを片っ端から鑑賞することで何とか息が出来ていた彼女にとっては、どれも馴染み深い名作ばかりだった。彼女が答えると、アメは地団駄を踏んだ。
「はあ? ギナミがレイと付き合えばいいじゃん!」
「暴論」
「でもさあ、まじでギナミはレイと話合いそうなんだよね。そういえば、ギナミってこないだ評論で賞取ってなかった? 羨ましすぎる、アメってメディアとか観ても全然うまく喋れないから……」
 その才能売ってくんないかな、とアメが低く呟く。彼女は珍しく曇り気味のアメの横顔を堪能したあと、瓶に入った水飴を傾けながら、高いよ、と返した。季節限定だという小瓶入りの水飴は涼しげな薄荷色で、透き通った液体を光に晒すとオーロラが吹き上がる。
 そうして、彼女が水飴を飲み終わる頃には、彼女の意思に関わらず、なぜか「そういう話」になっていた。
 
 
 レイと付き合ってからも、アメはたびたび仕事を寄越した。それどころか、彼女の仕事ぶりを友人らに吹聴したらしく、いつの間にか見知らぬ人間からも依頼が届き始めた。彼女は副業の収入だけで、マンションの家賃がすっかり払えるようになった。
「虚しくない?」
 ワダの声がリフレインする。
 何が虚しいのか、彼女には解くことができない。メディアの分析が上手くとも、自分は対象外なのだろう。あるいは、アメが絡んでいると。
 他者が発したメディアの所見をすっかり覚えて、アメはレイと楽しく会話できているのだろうか。関係が続いていて、嬉しそうなアメの姿からすると答えは「是」だ。ボロが出ないはずはないのだが、アメはレイと上手くやっている。
「バレちゃった」とアメが連絡してくる日を、彼女は待っていた。そもそも、アメが立てた陳腐な作戦など初回のデートで失敗するはずだった。にも関わらず、未だその気配はない。分かっている。レイはもう知っている。
 再びパネルから音が鳴る。次のターミナルが目的地だった。「ヘシア果樹園前」と浮かんだ文字を彼女は視線でなぞる。
 殆どの情報が電子記号でやりとりされるようになって久しいが、データ化から取り残された物質財産や、一部のマイナーデータを保管管理する大型施設が存在する。分野によって細分化されたそれらの施設は、一般に「果樹園」と呼ばれている。旧世民法では、物質から得る利益のことを果実と言ったらしく、その名残らしいが、彼女も詳しくは知らない。
 彼女は免疫検査を経て果樹園に入る。適切に管理された空調が心地良かった。館内案内を端末にダウンロードして調べると、一階から五階までは紙質の書籍で埋め尽くされている。彼女は奥にあるエレベーターに乗って、映像媒体が保管される七階へと向かう。
 エレベーター内は清潔で明るかった。お馴染みの浮遊感が爪先から入ってきて、身体のなかを滑っていく。彼女はゆっくりと目を閉じた。何の匂いもしない空気を肺一杯に吸い込む。
「ギナミって、いつも悲しそうだから。なんでか分からんけど。で、アメもギナミと一緒にいるとき、悲しい気持ちになんの。アメ、あんまり悲しい気持ちになることないんだけど、ギナミがなんで悲しいのかって考えるとね、この世が悲しいからなんかなって思ったりする。なんでギナミが悲しいんか分からん過ぎて規模がデカくなる。ギナミといるときだけ、そういう気持ちになって、しかもアメそれが結構、嫌いじゃなくてさあ、変だけど、全然嫌じゃないんだよね。上手く言えんけど、これ、ギナミ、アメの言ってる意味とか分かる?」
 自分たちはなぜ友達なのか、というような面倒くさいことを、いつだか彼女が言ったとき、アメが返してきた言葉だ。彼女は、ほとんど告白みたいじゃないかと感じたが、アメはそうとは思っていないようだった。
 彼女は目当てのメディアを探し出すと、カウンターに届け、鑑賞スペースにピンを打った。今日が終わるころには、役に立たない原稿が一本仕上がっているはずだ。
「虚しくない?」
 彼女は鑑賞スペースのシートに寝そべりながら舌打ちをする。ドリンクを買ってくるのを忘れていた。
 彼女は端末を弄りながら、分からんけど(これはアメの口癖だ)レイヤーの違いじゃないかな、と胸中でワダに答えた。
 確かに、休日を費やして書いた原稿が、依頼者の思っているような本来の役割を果たすことはない。レイはもう、自分の気を惹きたくて仕方がないアメが愛しい段階に入っていて、つまりアメの渾身の作戦と頑張りは茶番で、更に言うならそのために甲斐甲斐しく働いている自分は道化ですらない。まったく、なんという不毛。たわわに実った不毛たち、不毛の大豊作だ。
 自分とアメのあいだに、昔の人が指したような「果実」は存在しない。とにかく今は。あるいは、未来永劫。
 それでも、他者への摩擦のために命を使っていかないと、溢れかえる世界に溺れてしまいそうになるのだ、と彼女は思う。否、誰かなんていう言い方は良くない。それは自分の愛する人間、アメのためだ。実らない果実。息が詰まるくらいの不毛さ。でも不毛を愛せなかったら、自分は生きていかれない気がする。不毛と虚しいは多分違う。違うはずだ、と彼女は思う。
 
 室内灯が消え、フィルムが始まる。
 彼女は数度瞬いて、自分に没頭を許す。