彗星のてんぷら

あげたての星からはイマージュの匂いがする

【再掲】男女BLとは何かー『映画ズートピア』にみる男女BL

 2016年に発刊された『BL俳句誌 庫内灯2』に寄稿した男女BL論の再掲です。

 主にフェミニズムとBLの関係に焦点を当てながら、当時ネット上で度々話題になっていた「男女BL」について書いたものです。

 発表当時から既に三年。フェミニズムクィアに関しては、意識改革や作品への昇華が急進的的なこともあり、今読むと古びた考えや表現になっているところもあります。私自身、もう「男女BL」という言葉は使っていませんし、概念としても周回遅れと感じます。『キャプテン・マーベル』や実写版『アラジン』が既に出ている世にあって、もはや何をいわんや。しかし、異性恋愛規範から脱出した男女の関係性を語る上で、男女BLという概念はひとつの「飛び石」として、まだ有効かとも思うのです。

 更に個人的にフェミニズムとBLの関係性については今読んでもよくまとまっていると感じたため、web再掲をすることに決めました。

 BLを求める気持ちや、何をBLに見出すのかといった部分が多義的で、個々に違ったものがあるというのは承知です。それを踏まえつつも、今回はフェミニズム的観点から読み解きを行っています。

 

 

 

 

 

 

 

男女BLとは何か ~映画「ズートピア」に見る男女BL~

【はじめに】
 「男女BL」という言葉が持つ矛盾は凄まじい。
 BLという言葉が主に男同士の恋愛を指すことを考えると、定義を根底から揺るがすような不両立な言葉の組み合わせが混乱を誘う。成り立つことがまず許されないだろう形、角のある球体だとか、あるいは酢豚の豚肉抜きのような意味の不明瞭さと齟齬を感じる。
 そもそも男女BLってなんやねん。と思う方も多数いるだろう。そう、男女BLという言葉は以前からフェミニズムに関心のある人たちの間ではでは多少やり取りされてはいたものの、主にここ最近ツイッターを通じて人の目に触れるようになった比較的新しい言葉である。
 最初に伝えておくと、「男女BL」とは、コンビやカップルが男同士でない、つまり性の組み合わせが男女であるにも関わらずBLっぽい感じがする、BLを感じるのと同じ脳で萌えてしまう関係性のことを指す。ここで、ほぼ等々の意味合いを持つ言葉として「やおい」を思い出す人も多いかも知れない。やおいという言葉は今ではあまり聞かれなくなったが、かつては男男でも、男女でも、女女でも何か一種の「きな臭さ」を感じる強い関係性にやおいという言葉は使われていた。(1)
 男女間でBL的な萌えを感じる作品についての回答をウェブ上で求めたところ、『TRICK』(2000)の山田と上田、『SPEC』(2010)の当麻と瀬文等の組み合せ等が上がった。また最近の映画であれば『パシフィック・リム』(2013)のローリーとマコ、または『マッド・マックス 怒りのデスロード』(2015)のマックスとフュリオサ、またディズニーの『ズートピア』(2106)のニックとジュディー等の作品やキャラクターも人気が高かった。
 この論文では、男女であるにも関わらず、私たちがBL的な世界観を持たせてしまいたくなるような関係性、つまり最近一部で「男女BL」と呼ばれつつあるものについて、焦点を当てて見ていきたいと思う。「せっかく男同士の愛を求めてこの本を取ったのに、なんで男女の話をされなきゃいけないんだ!」と憤りを感じる人も勿論いるだろう。その気持ちはとても分かる。しかし著者には今、BLというジャンルがまたひとつの転換期を迎えているように思える。その過渡期において、男女の絆を描いた作品をBL的に見るという視線が一定数あり、また「賛成はしないが、言いたいことは分からないでもない」という層がいる以上、やはり論じられてみても良いのではないかと思うのである。男女の関係性を描いているにも関わらず、「なんとなくBLっぽい」と感じてしまうふわふわしたものはどこから来るのだろうか。既にやおいという旧来からの良き言葉があるのに何故わざわざBLを被せるのか、また今後論を展開するにあたって、敢えてブロマンズとは違うアプローチで捉えたいのは何故かということについても言及していきたいと思う。


 
【BLの定義について】
 BLとはもちろん、ボーイズラブのことである。男と男の恋愛を中心とした女性向けの物語を指すために生まれた言葉で、もともとは耽美やJUNEから派生した言葉だ。
 BLを歴史として紐解くと、主に第三期に分けることができるとBL評論家の溝口彰子は述べている(2016)。溝口はBL史第一期を一九六一年~一九七八年の創世記(森茉莉や二四年組等の美少年漫画時代)、第二期を一九七八~一九九〇年のJUNE期(専門商業誌『JUNE』と同人誌拡大の時代)、第三期を一九九〇~現代(BL期)としており、更に溝口は第三期を一九九〇年代の第一期と二〇〇〇年代の第二期とに分けている(この第一期と第二期の差については後で詳しく述べる)。
 森茉莉の小説や二四年組の作家陣が描いた少年たちの愛の物語等を皮切りに、文学的で悲愴的な香りを持つ男同士の愛や絆の物語がジャンルとして耽美と呼ばれるようになり、やがて『JUNE』という雑誌の発刊を機にJUNE系としての定着を見せていく。そして、悲観的な物語が多かったJUNEへのある種のカウンターとして、つまり「男同士の恋愛であっても、もっと明るくポップなものが読みたい」という求め手によってBLというジャンルが生まれ、普及していったというのがBL史の一般的な見方である。
 男性同士の恋愛を描いた作品にボーイズラブという名称が初めて付けられたのは一九九一年に創刊されたBLコミック誌『イマージュ』の創刊号においてだが、耽美と区別されるものとして別の名前が欲しかったために「男の子同士の恋愛を描いたものだから、ボーイズラブだろう、と深く考えずにコピーをつけたような気がします」と、当時イマージュの編集長であった霜月りつはBL黎明期を振り返るインタビュー集『あの頃のBLの話をしよう』(2016)で語っている。BLはかつて耽美やJUNEのカウンターとして生まれ、別の意味合いを持っていた。それは、耽美系と呼ばれる作品からこぼれるものがあり、それを掬う皿としての役割があったためである。
 今、BLという意味の拡大化が進んでいるが、その理由の一つとしてJUNEややおいという言葉が表舞台から姿を消しつつある状況が挙げられるだろう。雑誌『JUNE』の休刊以降、痛みを伴う男たちの物語の行き場は失われてしまったようであった。が、無論それらを好む人たちが消えてしまったわけではない。結果として、かつてはJUNEには馴染まないポップな男同士の恋愛を求めて生まれたBLという呼び名を持つジャンルが、現在ではJUNE的な要因を持つ作品も吸収している。それは、中村明日美子ルネッサンス吉田といった耽美的、JUNEっぽい作品を描く作家がBLレーベルで好評を得ていることからも明らかである。漫画家のよしながふみも、このところのBL傾向について「またJUNE的なものへの回帰を感じます」(2016)(2)と述べている。
 BLというジャンルは、広義でみれば実のところ非常に幅広い作風や作品を網羅する。それは、創世期やJUNE期において書き手や読み手が常に「愛とは何か」を問い続けてきたジャンルから生まれたことと無関係でなく、また規定の枠にはまらない、一般には好まれないとされるような描写や設定の物語を受け入れてきたジャンルだからでもあるだろう。
 ここで、『庫内灯』第一号(2016)の編集長の佐々木紺の言葉を引用しようと思う。

 さて、BLとはボーイズラブの略称であり、狭義には少年同士の恋愛のことですが、BL俳句で指したい「BL」にはリアル~美少年愛、場合によっては男女や女女、性別不詳同士の関係も含まれると思っています。どこまで通じているものかは分からないけれど、私個人としてはヘテロではない関係性のことをBLと呼びたいです。(この辺りどこまでどう指すかはかなり個人差がありますし、この考え方は一般的ではないと思いますが……。)
 恋愛がヘテロのものではないという可能性があること、あるいは恋愛とは違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。

 ここで佐々木のいうBLは飛び抜けて広義的ではあるが、BLというジャンルが、何かを囲ったときにそこから溢れていってしまうものをすくい上げて来たジャンルであることを思えば、あるいはBLのひとつの捉え方としては肯けるのではないだろうか。
 著者は、何故BLを愛するのか、何をBLに求めているのか、どんなBLを愛し何に萌えるのか、という問いかけは個人のたましいの問題なのだと思っている。それぞれが感じている生き辛さや抑圧を、このジャンルは救ってくれる。それゆえに、「これこそがBL」と決まった定義を決めることはとても難しい。それらを踏まえたうえで、あまり一般的ではないことを承知で、この論文内ではBLという言葉を広義的に捉え、佐々木が提唱したような「ヘテロではない関係性」として主に用いたいと思う。

 

【女であることの苦しみと「BL」】
 BL愛好家の殆どが女性である理由について、BLというジャンルが女性の持つ「女としての苦しみ」を解き放つものだからということは、既に今日まで繰り返し言われている。(もちろん、男性であってもBL作品を愛好する者は少なからずいる。その理由としては、一時期指摘された過激なポルノ性の他に、「男らしさ」の強要としての男性性を解き放つ部分が存在するからではないかと著者は考えている。しかしここではまず、BLと女性の関係に焦点を当てて見てみたい)

 BLと女性との関係について、溝口の発言を引用してみよう。

 BLの楽しみ方、いいかえればBLによってもたらされる快楽は、BL好きの女性の数と同じだけのバリエーションがあるといっても過言でないだろう。だが、あえてその快楽の一面をまとめるならば、次のように言えるだろう……女性の様々な願望が投影された男性キャラたちが、「奇跡の恋」に落ちる物語であり、女性が、家父長制社会の中で課せられた女性役割から解き放たれ、男性キャラクターに仮託することで自由自在にラブやセックスを楽しむことが出来るのがBLである、と。(溝口/2016)

 既存の異性愛物語を模倣するような物語構成の話が多いにも関わらず、BLジャンルが持つ特別な自由さの理由は、未だ家父長制が根強く残る現代社会において女性では手に入れることが難しいもの、つまり男と男の間には前提としてあるだろうとされている「他者との対等な関係」が作り出せる世界にある。
 またそれゆえに、受と攻の役割分担が自らなされるという自己決定権の存在も挙げられる。男女の恋愛物、かつ男女の役割がステレオタイプに描かれた物語では、女性はどうしても抑圧的、被支配的な立場に置かれる。異性恋愛規範が投影されたヘテロ作品はまだまだ世に溢れ、そして一部では何の疑問も持たず消費され続けている。男女平等が謳われるようになってかなりの年月が立つが、今でもジェンダーによる格差は根強く存在しており、ドラマやマンガ等のフィクション、あるいは広告などにも反映されている。
 一部の女性がBLに対して感じる特別さというのは、異性恋愛規範――男女で結婚して家庭を作り、男は外に出て女は家庭を守るというような、人生はこうあるべきというプロトタイプ的な関係性の強要からのエスケープ、反逆から来るものである。「男に尽くす恋愛こそが女の幸せ」という価値観を女性たちは長いあいだ植え付けられてきた。メディアなどではしばしば、男性や家庭のために自分や自分の人生をすり減らす女たちの姿が、美しいもの、美談として語られてきた。しかし、何故女はそのように窮屈に生きなければならないのだろう。そして、何故規定的な恋愛のため(相手である男のため、そこから派生する家庭のため)に犠牲にならなくてはならないのだろう。無論、恋愛自体は(無論それに伴う家庭も)悪でも堕落でもない。しかし、自己犠牲を伴う恋愛しか許されない、自らの夢や自由を棄てて恋愛を選び続けることでしか価値を許されない、認められない社会というのは悪であり、堕落した場である。女性はこれらの価値観の中でずっと抑圧されて生きてきた。そこからの脱却装置として、あらゆる面でBLジャンルは癒しとしての作用を持っているのだ。
 BLは現在抑圧されて生きざるを得ない女性にとっての救済装置であると共に、はばたきの翼である。BLジャンルにおいてあらゆる職業ものが充実しているのは、やはり抑圧の問題と関係しているのではないだろうか。BLの世界においては、ふたりの「絆」の物語であることはもちろんだが、主要人物たちの生きる世界にはあらゆる仕事があり、夢があり、未来が広がっている。そういう自己実現への道が開かれている世界で起こる様々な関係性の物語が、BLジャンルの特性とも言える。それらの世界に対して読者は、ときに登場人物に感情移入したり、また二人の働くオフィスの観葉植物になったりして接近し、楽しむことが出来るのだ。
 女性では得られないがゆえに、男性のコミュニティーの中に入り込んで自在に遊ぶという姿勢がある以上、かつてのBLジャンルは非常にミソジニー女性嫌悪)的でもあった。いわゆる「女なんて」の世界であり、女性性として押し付けられる窮屈をありありと感じているが故に、救済装置であるBL作品においてすら、というか弁証論的に必然として、女性の立場は被支配的なところに置かれたままであった。
 しかし、これについては現在変化が見られる。冒頭で紹介した溝口のBL史論についてであるが、溝口は第三期であるBL期を一九九〇~現代と置き、更にこれを一九九〇年代の第一期と二〇〇〇年代の第二期とに分けている。この後期において、溝口はBLが進化していると述べている。どのように進化しているのか――以下に抜粋したい。

 BL史三期第二部の二〇〇〇年代以降、女性性や男性同性愛者の扱いについて、既存の女性の役割に異議をとなえ、現実よりもより同性愛者でも差別されず生きやすい(ゲイ・フレンドリーな)世界を描いた、進化したBL作品が増加した。言い換えれば、ミソジニー女性嫌悪)やホモフォビア(同性愛者嫌悪)、そして異性愛規範についての三点についての進歩、進化であり(以下略/2016)

 溝口は、かつては女性性からの逃避であり、ジェンダー的約割を選びなおすという自由はあるものの、異性恋愛規範に囚われたままであったためにBL世界においても発生していたミソジニーホモフォビアを問題視し、克服する作品が増えていることを指摘し、またその理由として「ゲイたちに対する視線」を通じて(4)、マイノリティに向き合う姿勢を持つ作家が増え出したからだと主張した。例えば、一昔前であればBLにおいて女性の姿は厳禁であった。BL作品に登場する女性は主に、過去に受や攻と関係を持ったことがあり、彼らの素晴らしさや彼らの現在の関係性をより引き立てるための当て馬としての存在や、腐女子として男たちの姿を楽しむ読み手の投影としてのメタ存在としてしか許されていなかった。しかし、現在多くのBLで、女性にも人間としての深みや厚みが描かれるようになり、また主人公格の男たちと同等の立場に立ち、彼らを導いたり見守ったりする魅力的なキャラクターを見られるようになった。リブレ出版から、秀良子、志村貴子ふみふみこ等が描く『女子BL』(2015)と題するBL作品に登場する女子たちに焦点を当てたアンソロジーが発刊されたのを覚えている人もいるだろう。
 また、ホモフォビアについても、彼らが現実に存在したらどのように周囲から捉えられ、また生きていくだろうかということに真摯に向き合って描かれた作品が描かれるようになってきた。これはかつて、男とセックスをしておきながら「おれはホモじゃない!(ゲイ・コミュニティーへの拒絶)」という台詞がBL作品内で飛び交っていた以前とは、書き手も読み手も意識が変わってきたことを示している。
 BLというジャンルは、女性が生きる「あまりにも余白の少ない圧迫的強制的な現実」へのカウンターであり、また直視するにはあまりにも苦しい傷や痛みから守られるための、クッションに囲まれた場所でもある。そしてそう言った場所であったからこそ女性たちは、改めて自分や周囲に目をやり、自らや相手の負った傷や痛みについて向き合って、考えることができたのではないか。
 受けや攻めに対する感情移入論で語られたり、ポルノ性のみが大々的に取り上げられたり、または全く自分を切り離した「痛みのない遊び」として語られることのあるBLだが、実際のところBL世界が内包するのはもっと多様なあり方で、ときにたましいの問題とでもいうべき重要な場所に踏み込むことを、真にBLを読んでいる人は実感しているだろう。BLというジャンルがあったからこそ、見えるようになった傷、向き合える問題というのがあるのだ。

 

 

【男女でBLは可能か】
 BL界でマイノリティに対する目線が変わってくるのと同様、ここ最近マイノリティに対する視線や考えを深く掘り下げて創作された大衆向け(つまりBLジャンルではない)作品が、あらゆるところで見られるようになった。法や周囲の偏見と闘うゲイカップルの姿を描いた『チョコレートドーナツ』(2012)や男女もののバティを描き、それを意識的に恋愛関係にしない『パシフィック・リム』等のタイトルを挙げておこう。
 『パシフィック・リム』は地球を襲う怪獣と戦う男女のバティを主人公に置いた作品だが、二人がイェーガーと呼ばれるロボットに乗り、意識をシンクロさせて戦うという設定がこの物語の肝である。意識を連結させるがゆえに、二人はお互いの傷を知るようになり、痛みを分かち合う。最初ぎこちなかった二人がやがて最高のバティとなり、ラストには死地を越えて地球を救うのだが、青い大海原を背景に二人きりで見つめ合ったローリーとマコが、情熱的なキスではなく、おでこをコツンと合わせたところでフィナーレとなったことに驚愕した人も多いはずだ。
 恋愛以外の関係性であっても男女が絆を求め合って良い、それは自然なことなんだというメッセージが、今主に海外映画でよく描かれているように思える。『マッドマックス 怒りのデスロード』は公開当時から非常に話題になったが、特に女性に人気があったように感じられた。あらゆる部分で見所のある映画だったが、特にミソジニーに対する問題意識の視線の鋭さはここ最近の作品の中では群を抜いていた。その中で、産むためのみの存在として扱われる女たちを開放しようと戦うフュリオサの存在は圧巻だった。主人公マックスと対等に渡り合い、絆を作り、強く前へと進んでいく彼女の姿や、マックスとの背中を預け合う関係性にため息をついた人も多いだろう。
 そして、そんな男女バティの関係をBL的な目線で楽しむ人たちもいた。ただ、これに関してはどちらかというと「萌えるけど恋愛じゃないところがいいから!」という、いわゆる広義のBL的なところに含まれる領域で、盛り上がっていた人が多いようである。

 そして遂にこの論文の命題である男女BLについて、本年映画公開となり大ヒットとなったディズニー映画『ズートピア』(2016)を題材に見ていきたい。
 ズートピアの主人公は幼い頃から警察官を夢見てきたウサギのジュディー。大人になり、夢を叶えた彼女が世界初のうさぎの警察官として、都会――肉食動物と草食動物が一緒に仲良く暮らす街、ズートピアにやって来るところから物語は始まる。そしてズートピアで多発していた連続行方不明事件を、ひょんなことから出会った詐欺師のニック・ワイルドとコンビを組んで解決することになる。二人の活躍で行方不明事件はめでたく収束へと向かうのだが――やがて、物語は思いがけない方向へと走り出していく。
 ズートピアという映画自体が、マイノリティである存在、また偏見について深く意識を払って作られた作品である。物語の登場人物たちはすべて動物だが、そこに立ち現れている性質や人格、心の動きなどは生々しいほどに人間そのものである。また、夢が叶う街、平等な街と謳われるズートピアにおいてさえ偏見が根強くあること、偏見を持つのは悪人ではなく「普通の人」「別の場所ではまた迫害を受けてきた人」でありえること等にも、焦点を当てている。
 語るべきところの多い映画だが、まずこの作品においては、主人公格のウサギのジュディーとキツネのニックの関係がとにかく良い。初めは反目し合っていた二人が互いを尊重し、弱さを支え合い、痛みを共有したパートナーとなっていく物語は優しさと哀しさと強さにあふれていて胸を突かれる。更にこの二人は対照的な属性を多く持っているという設定なのだが、その異なりを時に絆によって、時にそれらの属性が旧世代のラベルングでしかないという枠の破壊をもって超越していくところも見所なのだ。物語内で何度も描かれる肉食動物(捕食・搾取側)と草食動物(非捕食・非搾取者)としての対照、男と女としての対照、またステレオタイプ的なキツネ(ずる賢い性格)とウサギ(お人好しでまぬけな性格)の対照等を一例として挙げておこう。これらの属性や偏見を、ジュディーとニックは共に協力し合う内に解きほぐしていく。向かい合った二人は個として相手を見つめるようになり、「何だかあなたって、実は私みたいね」とお互いの痛みや優しさを発見し合って行くのだ。
 この作品が公開され話題になるや、インターネットでも数多くの反響があり、またファンアートが描かれた。実際、ニックとジュディーの関係に夢中になった人は沢山いた。繰り返しになるが二人のバティの関係性は見ているだけでワクワクするような面白さがあり、またBL愛好家の目線で言うなら凄まじい「萌え」を含んだものであった。
 先程紹介した映画と同等、描かれている物語の範囲でニックとジュディーは恋愛関係にはならない。最終的に二人は「仲間」として共に歩んでいくラストを迎えるのだが、今後二人がどのような日々を歩んでいくのか、もっと見てみたいと思わされる仕様になっている。そしてネット上では「このあと、ニックとジュディーは付き合っちゃうんじゃないの!?」という意見も多数上がった。事実、二人は非常に良い関係でエンドロールを迎えており、今後恋愛に発展しても可笑しくはない感じである。しかし、「ニックとジュディーの関係がめっちゃ萌えてやばくて死ぬ!」と心を震わせている人々は、ラストがどう、というよりかは作中の二人の関係の描かれ方で既に「付き合っちゃいなよ!」となっているのである。このときめきに関して、古典的な異性恋愛規範的なものではなく、先ほど述べたBL萌えとでも言うべき独特の情熱によると見受けられる層が一定数いたように思う。これはやはり作中で描かれるジュディーの主体がしっかりしており、男(雄)であるニックと対等な関係を築けていたことが強い要因になっている。二人の均衡した力関係とユーモラスなやり取りが生み出す仲間としての親密性と、それゆえに踏み込み難い性愛への危うさが楽しいのだ。
 そしてまた、そんな二人の絆を恋愛に当てはめるなんて面白みがない、二人は恋愛以外で対等に結ばれているからこそ良いのだと主張する者も多く、鑑賞を終えた者がツイッターなどでニックとジュディーの関係性の妙について語る図がよく見られた。ニックとジュディーの関係は、男女が恋愛関係でなくても強く結ばれることができるという希望の意識を届けてくれるので、それが琴線に触れた者は彼らをバティとして成り立たせておくことに価値を感じるのである。二人の関係を恋愛にしないことに萌えを感じる層についても、「やおい」にルーツを持つ広義のBLとして語れる部分があり、耽美やJUNEを流れに持つBLお得意の「愛とは何か」という問いが感じられて面白い。
 余談だが、この映画のラストにニックがジュディーに向って「おれのこと、好きなんだろ?」と問いかけるシーンがある。このときのジュディーの回答が実にニヤリとさせられるものなので、是非英文の方で確認していただきたいと思う。
 BLに癒される女性は、不自由で歯がゆい「社会から押し付けられた女性性」を脱ぎ捨てて、夢の地であるBLワールドではばたいて来た。女性が受け身であることが予め定められている社会の息苦しさから逃れ、また役割や制度を超えた「本物の何か」を探し出すために、BLというジャンルに手を伸ばしてきた。その事を思うと、「男女のコンビでBL的な萌え方が出来る」ようになっている現代は、随分進化してきたのではないか。女であっても個別的であり、誰とでも対等な関係を築けるというメッセージの発信を受け取った者がそれを受け入れることにより、男女BLは成り立つのである。それはやはり、女性を抑圧してきた家父長制度や異性愛恋愛規範からの脱却である。前記した佐々木の「ヘテロ恋愛」というのも、男女の恋愛というよりかは異性恋愛規範に則った関係を指していると考えられる。つまり、同じヘテロカップルであっても従来の異性恋愛規範的な関係と、それらを脱した互いの存在が対等である男女BL的な関係は、ある程度区別されるべきなのではないだろうか。
 かつて男女のやおいと呼ばれていた関係をあえて「BL」とするのは、その萌えの根源にあるものをBLに関わる視点から一度解き明かすことが必要と感じるからである。星空を求めて旅立っていた我々が、空を飛ばなくても星を手にし得るという気づきにより手のひらに星を包むことができること、その可能性を希求すること――これが、著者が男女BLと呼ぶものたちの持つ光なのである。

 

【「男女BL」のこれから】
 BL的な萌え方が出来る男女の組み合わせは、色々あるようで実のところ幅が狭い。というのも、男女間でBLっぽさを感じる作品として挙げられるその殆どが、刑事物や戦闘物、または何かしらの才能や能力に関わる作品なのだ。男女でBL的な萌え方をするには、くり返し述べるように男女に同等の価値が認められ、同じフィールドに立っていることが必要となる。それは無論「存在の大前提としての対等」とでも言うべきものが望ましいが、現状では女性の方に有能さや心の強さ等を託し、男性と同等に渡り合える女性という一面を強調しなければ難しいようである。BLであれば「石油王と取り柄のない男」の組み合わせはあらゆる萌えの可能性を孕んだ関係性として勿論成り立つ。しかし、これが「石油王と取り柄のない女」であれば、BL的な萌えを感じるのはかなり難易度が高くなってしまう気がする。注意をしなければ古典的な異性愛規範的な物語として回収されてしまうような――この「注意」とは一体なんなのだろうか。著者はつくづくと考えてしまう。
 一時期、狭い範囲ではあったがウェブ上で「男女BL」が議論された。その際に見受けられたのは、男女BLという呼び方は不適切であるといった主張である。もっと他の良い名前があるのではないかという意見、またBLに「男女」を冠することで、損なわれるものが確実にあるだろうという意見等があった。実際のところ著者は、男女BLという名称を流行らせたいわけでも、固定させたい訳でもない。この関係を「男女BL」と敢えて呼んだのは、繰り返しになるが問題提起のためであり、また亜流ではあるが思想や希求の問題としてBLに繋がりがあると感じるからである。現在、目に入り始めている男女でも強い絆で結ばれることができるというメッセージを受け取るにあたり、かつて女性性を排することで楽園として成り立っていたBLの「萌えの関係性」を読み取り、求めていたものを明らかにし、改めて私たちがトキメキを覚える男女の在り方の文脈を見つめ発展させる目を持つことは、無意味ではないと思う。
 本論文において「男女BL」という名称を与えた関係性については、これから女性たちが自覚的に希求していくだろう関係性へのひとつの飛石、架橋になるのではないだろうか。恐らくもっと明らかに語られるようになるとき、それらはBLのかたちをしていない。しかし、それでいいのだ。BLは常に抑圧されたり、溢れたりしていくものを掬い上げてきたジャンルである。そこから何かが位置づけられて、旅立っていく。そしてまたBLは、それらから溢れた別のものをすくい上げていくだろう。
 これは、やはりBLに関する話なのだ。そしてまた、かつて女性たちが苦しさ故に切り離して来たものへの希求を明らかにし、受け取り掲げることができる朝、自らの性に対し一度は諦めてしまった関係性を強く顔を上げて迎えるための兆しの話、次にやって来るだろう新しい暁のための試論である。
 
 
 
(1) よしながふみの対談集「あのひととここだけのおしゃべり」に男女のやおい関係についての言及がいくらかある。よしなが「以前、三浦しをんさんともお話したんだけど、「やおい」って単語を、私や友達の腐女子の人たちの間では、昔っから男の人同士以外のことにも使ってきたんです。よく例に出すのは、『ケイゾク』の真山と柴田の関係とか。『トリック』の山田と上田の関係とか。男女なんだけど、彼らの関係は恋愛じゃない。見た目仲良くないんだけど、お互いの力を認め合ってて、それでその人が本当に困ったときには手を貸してやる関係みたいなものを、やおいだと私らは呼んでて。で、『NANA』のナナとハチもやおいなんじゃないかって。羽海野「うんうん」よしなが「やおいの定義が違うんです。別にそれで同人誌を作りたいって言うんじゃないの。そこに何か、「きな臭い」ものを感じる時に使うんです。」(よしながふみ×羽海野チカ「女同士でも男女でもやおいな関係」の章より。) かつて多用されていたこのようなやおいであるが、現在では使われることが少なくなり、若年層では知らない者もいるだろう。「BL」というジャンルが拡大化するにあたり、JUNE同様「やおい」的なものもBLという言葉に吸収された一面がある。本論文にあたり彼らの関係性をBLと置いた理由の一端には、現在やおいという言葉がほぼ使われなくなりつつあるという現状も関係している。

(2) (最近のBLに関して感じる変化について) よしなが「今になって、またJUNE的な物語への回帰を感じます。個人的には、中村明日美子先生の活躍が印象的です。二〇〇三年に中村先生が『マンガ・エロティクス・エフ』で『Jの総て』の連載をされたとき、これはいまのBL誌には載らないものだなと思って、それが残念だったんです。こういう作品をBL誌が受け入れて、BLでヒットしたら何かが変わるんじゃないかと思っていました。『JUNE』が休刊当時、BLでは痛みを伴う恋愛というのが描けない状態に陥ってしまったなと思っていたんですよね。もともとBLは『JUNE』のカウンター的な存在でもありましたが、JUNE的なものがすきな人ももちろん存在しているわけで、それは現在も変わっていないと思います。だからこそ、その後、中村先生が『薫りの継承』のようなJUNE的、退廃的な雰囲気と美しさを持った作品を『BE・BOY GOLD』でお描きになったときというのは、個人的にすごく感慨深いものがありました。」(ボーイズラブインタビュー集『あのころのBLの話をしよう』より抜粋)

(3) 一九九〇年代の初頭、女性誌を中心にゲイが流行したいわゆる「ゲイ・ブーム」と呼ばれる年代があった。現代にも残る風潮であるが、ゲイによる「アート的で繊細且つ大胆、女を超えた男たちによる過激なメッセージ」を女性たちは求め、またそのようなゲイたちと友達になることが一種のステータスのようになった。しかし、これは美しく才能のあるゲイにしか光を当てておらず、いわばその他多くの「普通のゲイたち」の存在を認めないことでもあった。そのゲイブームの真っ只中である一九九二年より「やおい論争」と呼ばれる一連の記事がフェミニズム雑誌『CHOISR』に掲載されるようになる。これはゲイ男性・佐々木雅樹による「やおいなんて死んでしまえばいい」というエッセイにやおい愛好家たちが応答する形でしばらく連載されたものである。エッセイ「やおいなんて死んでしまえばいい」はタイトル通り過激な文言から始まり、男同士のセックスを好き勝手作り上げ消費しながらもリアル・ゲイに対しては全く向き合わず、「放っておいてください」と言い続けるやおい愛好家たちを非難する内容のものである。しかし、最終的には双方の歩み寄りへの言葉を零すなど、一方的にやおい愛好家を攻撃するだけのものではない。佐藤氏のエッセイに現れるやおいに対する複雑な感情については、文章全文を読まなければ受け取ることができないだろう。消費対象として扱われる窮屈さから抜け出したことで、また別のマイノリティを消費する立場に立ってしまったことを、やおい愛好家はリアル・ゲイたちの存在を認識することで知る。ここから、BLが同性愛嫌悪について向かい合う必要が論じられるようになった。「やおいなんて死んでしまえばいい」に関する詳しい経緯や全文は溝口彰子「BL進化論」で読むことが出来るので、興味がある方は是非一読してもらいたい。

参考・引用文献
 溝口彰子(2016)『BL進化論:ボーイズラブが社会を動かす』太田出版
 よしながふみ(2007)『よしながふみ対談集:あのひととここだけのおしゃべり』太田出版
 三浦しをん(2006)『シュミじゃないんだ』新書館
 かつくら編集部(2016)『あの頃のBLの話をしよう』桜雲出版
 金子敦子(2014)「ボーイズラブの歴史」『美術手帖』2014.12 P78~81
 松井みどり(2014)「少年の器、少女の愛:24年組とBLマンガの交差点」『美術手帖』2014.12 p131~137
 
ズートピア
 原題:ZOOTOPIA
 二〇一六年アメリカ映画
 監督:バイロン・ハワート
    リッチ・ムーア
 配給:ウォルト・ディズニー