彗星のてんぷら

あげたての星からはイマージュの匂いがする

アバウト・ア・ガール

 だからナタの持ってくる仕事は嫌だったんだ、とユンジェは血で開きにくくなった目をしばたかせながら思う。半覚醒した身体は重く、口の中が鉄っぽく粘ついている。
 最初から嫌な気がしていた。いつぞやの借りがなければ、あの慇懃無礼を絵に描いたような女の依頼など絶対に受けなかった。否、ユビン姉さんの紹介でなければ受けなかった。違う。ユビン姉さんの紹介だから、自分は受けざるを得なかった。
 周囲の酸素が薄く、ユンジェは喘いだ。このままでは窒息してしまいそうだ。だが、このセダン車が目的地に到着する前に窒息死していた方が、実際は幸福なのかも知れなかった。麻袋に詰められ、トランクに押し込まれた人間の末期などたかが知れている。
 ナタが寄越したキャリーケースの中身をユンジェは詮索しなかった。どうせ碌でもないものだ。キャリーケースを受け取ったユンジェは、車で五島列島まで向かった。かつて隠れキリシタンの集落だった小さな村に残る石造りの教会が待ち合わせ場所だった。県の指定有形文化財だという石造りの教会は思っていたよりずっと小さかったが、足を踏み入れると感慨深いものがあった。
 教会の中は資料館になっており、弾圧時代の長崎のキリスト教信仰に関する史料が並んでいた。時間潰しも兼ねて一通り眺め、飽いて古い木製の椅子に座ってぼうっとフレスコ画を見ていると、ふいに十五歳くらいの少女が現れた。彼女は一直線にユンジェに向かって歩いてくると、自分が今回の引取人だと告げた。驚いたユンジェはユビン姉さんに電話をかけたが、冷たく「早く渡して」とだけ言われ切られてしまった。
 良く分からない仕事だった。ユンジェの元にやってくる仕事はいつも良く分からない。巨大な絵画のような謀略の、ほんの端っこの絵の具の流線だけにしかユンジェは関わらない。ユビン姉さんの手先として小金を稼ぐしか生きる術を持たない自分は、ただ右のものを左へ、左のものを右へ移すだけだ。そして往々にして、このように殺されかかったりする。
「でも、結局生きて帰って来るでしょ。そんなに悪運が強いなら、もっと大きなことをすればいいのに」
 ユビン姉さんの恋人のジウは、長い髪を掻き上げながら焚きつける。
 ねえユンジェ、私たち二人でユビンを裏切ってやろうよ。
 あの子、自分が裏切られるだなんて考えたこともないに決まっている。
 びっくりして、わんわん泣いちゃうかも知れない。
 あなた、見たくない?
 艶めいた視線を投げかけるジウの薄いまぶたに輝くゴールドのラメをユンジェは眺める。濡れたような光はミステリアスだが、幼い顔立ちからは少し浮いている。そういうところが可愛いと思う。
「俺の人生を、痴話げんかのダシにしないでくれますか」
「ユビンったら、私のミッフィーちゃんの携帯置きを捨てちゃうんだもん! 傾いていて充電が遅くてミッフィーちゃんである以外なんの取り柄もないところがすごく気に入っていたのに!」
「アレ壊れてましたよね」
 鋭く言ったユンジェの言葉には答えず、ジウはガラスケースに並べられた万年筆に視線を移す。しかし、うっすらと尖った唇に、確かに自分の言葉が伝わっていることをユンジェは見て取る。
 そうだった。スティピュラの新作を見たいと喚くジウのために、あの日は高級文房具店へと車を出したのだ。驚くほど精密で美麗な万年筆と、ミッフィーちゃんグッズを集めるのがジウの趣味だった。
 恋人と喧嘩中だと騒いでいたくせに、いつの間にかジウはふんふんと鼻歌を歌い始めている。どうせ今晩にでも彼女たちは仲直りするだろう、と思いながらユンジェは自分では到底使う気も起きない文房具を眺める。宝石のように並べられた万年筆は他人行儀に、ガラスケースの中で澄ましている。
 結局、当初の目当てとは別の、琥珀色のセルロイドのボディーが美しい万年筆をジウは購入した。
 ドンッ、と車が大きくはねて、再び微睡みかけていたユンジェは目を覚ます。夢うつつの中で、今さっきまで聞いていたジウの鼻歌を思い出す。ボーカルが自殺した有名なロックバンドの曲だったが、タイトルは分からなかった。
 自分も死んだらジウに愛されるだろうか、とユンジェは麻袋の粗雑な肌触りを感じながら考えた。だが直ぐに「えーっ、ユンジェ殺されちゃったの? 可哀想だね」としんみり言うジウを慰めながら、彼女にぴったりと身体を寄せるユビン姉さんの姿を想像して、いやだめだ、と思う。自分なんかが死んでも、二人のセックスの適当なスパイスにされて終わる可能性が大だ。かなりの大。それは避けなければならない。
 帰らなければ。
 この車がどこに向かっているのか、いつ目的地に到着するのか、ユンジェには見当も付かない。だが、それは大した問題ではない。キャリーケースの中身と同様、碌でもない場所ということだけは確かだからだ。
 ユンジェは麻袋の中で身体を捻り、何とか仰向けと呼べる程度にまで体勢を整える。両手が胸の前で縛られているのは幸いだった。プラスチック製の細い結束バンドが巻き付いた手首はひどく痛んだが、背後で括られているよりかは自由が利く。背中をトランクの底に押しつけて横たわると、車体の揺れをダイレクトに感じる。車はかなり路面の悪い場所を走っているらしい。時折バウンドするように身体が跳ね上がった。
 ユンジェは慎重にバランスを取りながら、スニーカーの中で右親指を動かす。靴の中を探っていき、縫合部分に隠した硬いピンを見つける。爪を使って思い切り斜めに押し上げると、仕掛けナイフを表に出す。パチン、と軽い音がしてロックが止まる。刃渡り四センチにも満たない、極小の刃物だった。
 映画『007 ロシアより愛をこめて』に登場する女大佐、ローザ・クレッブが穿いていたような仕掛け靴。映画に出てきたのは革靴だが、ユンジェは自分の好みに従いアディダスのスニーカーを改造した。
 単独行動を基本とするユンジェは、自分で身を守るより仕方がなかった。とは言え、手足がひょろ長いばかりの体格は屈強さに欠ける。必然的に、身に付けるガジェットばかりが増えた。スパイグッズさながらの飛び道具について、ユビン姉さんからは「映画の観すぎ」と寒々しい視線を投げられることもあったが、役に立つのだから仕方がない。苦言を呈するユビン姉さんが、だからといってユンジェのピンチに駆けつけてくれるわけではない。
 ユンジェは自分を傷つけないように用心しながらナイフを麻袋に押しつけ、ゆっくりと切り込みを入れていく。身体が跳ねるタイミングで上手く麻袋を回し、出来るだけ大きな穴を開ける。麻袋は分厚く切りづらいが、辛抱強く作業を続けた。何とか麻袋から脱出する頃には、ユンジェの全身は汗びっしょりになっている。トランクの中は作業には向かない。そんな当たり前のことを思いながら、今度は刃を出したままのスニーカーを脱いだ。これで腕に巻かれている結束バンドを切れば、四肢が自由になる。
 あともう少し、と溜息を吐いた瞬間、車体が大きく揺れた。踏ん張り損ねたユンジェはトランクの中を転がる。車が急停車したのだ。
 強かに頭をぶつけたユンジェは焦った。作業に熱中するあまり、目を覚ましてからどれくらいの時間が経過したのかまるで意識していなかった。時間感覚の喪失は痛手だ。
 ユンジェはトランクのどこかに転がったスニーカーを探す。が、暗すぎて何も見えない。両腕はキツく縛られていて、腕を伸ばしたくても不可能だ。
 ユンジェは思わず舌打ちし、まとめられたままの両拳を床に打ち付けた。

 

 『緋の姉妹』がどれほどの規模の組織なのか、ユンジェは知らない。だが、朝鮮半島と日本を拠点に跋扈する犯罪組織で、今からたった三年ほど前に出来上がったというのは確かだ。トップを張るのは、ユビン姉さんとジウの二人。女性を頭領に掲げる犯罪組織は、その構成員のほとんども女性で占められているらしい。らしい、と言うに留まるのは、構成員たちが一同に会する機会はなく、ユンジェ自身会ったことのない者がたくさんいるからだ。彼女たちは表向きはごく普通の生活を送っており、必要な場所で必要な仕事を請け負うことで組織に貢献していた。ユビン姉さんはこの在り方を「ゆるい連帯」と呼んでいた。
 だが、闇組織と言えば『ゴッド・ファーザー』や『仁義なき戦い』のように疑似家族的な強い絆がセオリーである。並外れた欲望と危険が渦巻く世界だ。互いに盃を交わし、相手を懐に抱いてようやく成り立つものがあるのではないか。ユンジェにはユビン姉さんの考えが理解できなかった。「スマッシュ・ザ・ペイトゥリアーキィ」というのがユビン姉さんの信条だった。
「叛逆を心配しているな」
 構成員をもっと厳しく管理したほうが安心ではないか、とユンジェが尋ねたとき、ユビン姉さんはそう言った。ユビン姉さんの髪がまだ長かった頃だから、二年ほど前のことだ。
 ユンジェとユビン姉さんは、自宅兼オフィスにあたる都市部の高層マンションの一室にいた。ユビン姉さんはオンライン上で構成員たちに指示を出し終わり、ユンジェにジャスミンティーを持ってくるよう言いつけたところだった。
 ユンジェがユビン姉さんの部屋に入ることは稀だが、偶に一緒に茶を飲む日があった。黒色のインテリアで統一された部屋はホテルのように洒落ていて、ユンジェは内心いつも落ち着かなかった。クッションから観葉植物から何に至るまで、隙がないのだ。壁にはユンジェの知らない現代画家の絵画が一枚掛かっていた。抽象的な表現で何が描かれているのか皆目分からなかったが、目の醒めるような赤色にじわりと滲んだ黒緑のインクを眺めるとき、ユンジェはいつでもトマト缶の海で溺れるオットセイを思い出した。
「そんな野放しで危なくないんですか」というユンジェの質問に、ユビン姉さんは腰掛けていた高級事務用椅子をリクライニングにした。そうすると、綺麗に手入れされた睫毛がよく見えた。
「心配ご無用だね」ユビン姉さんは目を閉じながら言う。
「何で、そんな自信あるんですか? 敵対する誰かに取り込まれるかも知れないし、下克上を企む奴がいるかもしれない」
 結社されて間もない『緋の姉妹』には、至るところに敵がいた。仕事上の利害関係は元より、闇社会で女性ばかりの組織が幅を利かすこと自体に反感を抱く人間も多かった。現にユンジェは、そういう噂をかなり知っていた。
 ユンジェが思いつきで話しているのではないらしいと察したユビン姉さんは、少し考える素振りを見せた。
 しかし結局、ユンジェは明確な答えを聞けなかった。ただ「アンタが思うほど、女は社会を信用していないから」と、ユビン姉さんは言い切った。
「それにそんな馬鹿じゃない。私も、あの子たちも」
 ユンジェは良く分からず、「はあ」と間の抜けた言葉を返した。

 

 水を頭から被ったユンジェは目を覚ます。一瞬溺れるような息苦しさがあり、次いで遠のいていた痛みを思い出す。まだ鋭利さの残る三月の冷えた潮風は、手加減もなく吹き荒んでいる。散々痛めつけられた身体は怠く、火照ってさえいたが、同時に背筋は凍えるほど寒かった。ユンジェは焦点の合わない目で周囲を見渡した。空も海も墨で洗ったように真っ暗で、夜明けの気配すらなかった。
 車のトランクから引きずり出されたユンジェは、今度は中型の釣り用船舶の看板に転がされていた。海水に濡れた看板はぬめつき、独特の青臭さがあった。思わず噎せると、ついさっきまで砂袋のように扱われていた身体が悲鳴を上げた。脱走に失敗したユンジェは、更に厳重に縛られていた。後ろ手に拘束されると、肩が抜けそうに痛む。
 ユンジェは、鼻水とも鼻血とも知れない液体が唇を濡らしていくのを感じながら瞬いた。厄災からはまだ解放されない。早春の漁船に乗せられたのは、これから獲れたての鮮魚をご馳走してもらえるからでは決してない。
 船の看板には、二人の男が立っている。ガッチリした体格の良い中年の男と、中肉中背の若い男。更に先ほどは小太りの男の姿も見えたが、今は船の操縦席にいるのか見当たらない。いずれも釣り船には不似合いなスーツを着ている。シャツに好みが出るらしく、中年は落ち着いたダークブルーのカッターシャツ、若い男は大柄の牡丹が描かれたバンドカラーシャツを選んでいた。
「思い出したか?」
 若い男が、足元にバケツを落としながら問う。粘っこく高い声が耳障りだった。
 ユンジェは尋問の内容を一瞬思い出せなかった。だがすぐに、自分が足を踏み入れたあの美しい五島列島の教会が頭に浮かんだ。赤煉瓦造りのゴシック建築、椿をモティーフにした珍しいステンドグラス。彼らは、先日ユンジェが引き受けた仕事について嗅ぎ回っていた。キャリーケースの中身の行方を捜しているのだ。
「ボスがだいぶご立腹でな」
 恫喝する部下を諫めるように、中年が肩を竦めた。やれやれ、という雰囲気には、組織の下っ端同士お互いに苦労するよな、という同情じみた甘言が混じっている。
 中年は懐をまさぐると、しわくちゃのソフトケースから煙草を取り出した。大儀そうに咥えたところで、若い方が即座に火を差し出す。
「オレたちだって、別にアンタが好き好んでそんな仕事をしてるとは思っていない。女どものパシリなんざあ、喜んでやることはねえよな。兄ちゃん、これは一種の取引きだぜ」
 煙草の煙を吐き出した中年が言う。ユンジェは夜闇に流れる煙を見ながら、この世で最後まで煙草を吸い続けるのはヤクザかも知れないなと思う。
 ユンジェがそのまま黙っていると、中年は引き攣ったように笑った。無視されたことに気分を害したらしい。再び煙草の煙を吸い込むと、さっきも言ったけどな、とやや声を低くした。
「あのキャリーケースには、ボスの大事なモンが入っていた。それをコソ泥に盗まれたとなりゃあ、流石にこっちも黙っていられねえ。面子もあるしな、何よりボスが塞ぎ込んじまってよ。お陰で何人か腕が飛んだぜ。オレたちも危ないところだったが、幸いアンタを見つけられた。難しい話じゃない、受け取ったキャリーケースを何処にやったのかさえ教えてくれたらそれで良いんだ。何度も言うようだが、悪い話じゃねえ。というのも、オレはアンタを生かしておくつもりだからさ」
「へえ」
 ユンジェは相槌を打ってしまう。こっちが恥ずかしくなるような白々しさへの嫌味だったが、中年には伝わらなかったようだ。中年はユンジェが乗り気になったと思ったらしく、口端にニヤニヤした笑いを貼り付けると鼻の穴を膨らませた。高く打ち付ける波の音を背負い、中年はゆったりと胸を逸らる。
 中年は、オレが世話してやっても良い、と粘っこく言った。
「アンタ、『緋の姉妹』のユンジェだろ? こっちの世界でも噂は回ってる。インポの世捨て男が、女どもにこき使われながら尻尾振ってるってな。もしくは、レズビアンに挟まってるラッキーな男がいると。ははっ、元は堅気の人間だったんだろ? とんだ災難に見舞われたもんだな。しかも落ちた先が良くなかった。なんで選りによってソコなんだ? アンタもいい加減うんざりしているはずだ、女なんかに顎で使われてよ。オレは気の毒に思ってるんだ。だから素直に情報をこちらに流すなら、オレからボスに頼んでやる。コイツはただ巻き込まれただけなんです、ってな」
 巻き込まれたというのは合っている、とユンジェは思う。だが、果たして本当に『だけ』なのかは、知れなかった。
 五島列島の教会でキャリーケースを引き渡した少女のことを話せば、男たちは納得するのだろうか。或いは、恐らくは足取りを追えなかったであろうナタのことを話せば褒めてもらえるのか。ユンジェは、中年が自分に謀反を勧める一番の理由を知っている。ユンジェを手中に落とせば、『緋の姉妹』に入り込んだスパイを手に入れられるからだ。ユンジェを利用すれば、気に入らない女どもに痛い思いをさせられ、更に組織での株も上がって一石二鳥と言うことなのだろう。
 ユンジェは目を閉じた。そして、ジウの顔を思い浮かべる。広い額、胡桃のように大きな目、少しばかり低い鼻と薄くてつやつやで血色のいい唇。
「ねえユンジェ、私たち二人でユビンを裏切ってやろうよ」
 聞き慣れたジウのいたずらっぽい声が聞こえる。いつぞやの文房具店で、深夜のコンビニエンスストアで、お気に入りの台湾茶の店で、雑貨の並んだキディーランドで、そうやってジウはいつもユンジェを確かめた。容易く繰り返される言葉。
 だが、それが言葉通りの意味を持っていたことはなかった。少なくとも、言葉通りの意味としてユンジェが受け取ったことはなかった。本人は無意識かも知れなかったが、ユンジェは寄越される軽口の中にいつでもジウの不安を感じ取っていた。


 ねえユンジェ。あなたは、ユビンを傷つけたりしないよね?
 あなたは、私たちを痛めつけたりしないでしょ?


 目を開ける。ユンジェは横たえていた身体を持ち上げると、ふらつきながら立ち上がった。後ろ手に縛られているせいで、真っ直ぐな姿勢は取れない。
「断る」
 短く言うと、途端、若い男に二発殴られた。頬と鳩尾に強烈なパンチを食らったユンジェは、再び看板に転がった。
「てめえ、親切にしてもらってんのを仇で返すんじゃねえよ」
 親切にしてくれと頼んだ覚えなどない、とユンジェは今の一撃でグラついた奥歯を舌で触りつつ思った。そもそも、こんなに殴られて親切も何もあったものではなかった。
 中年がまたも笑い声を上げる。怒りを孕んだ声は高く引きつっている。中年は倒れ込んだユンジェに慇懃そうに近づくと、革靴を履いた足でユンジェの股間を踏みつけた。
 顔を歪めたユンジェの息遣いを楽しむように、中年が言う。
「アンタは勘違いしているようだが、これは厳密に言えば提案じゃない。選択肢は一つ。オレたちに付いてくることだな、それが一番賢明だ。それとも三人でやるセックスがそんなに良かったのか? 確かに、愛し合う女たちをまとめて抱くのは快感だろうな」
「ゲスは脳みそが小さくて困る」
 ユンジェが笑い飛ばすと、股間への負荷が段違いに強くなった。本当に踏み潰されそうな痛みを覚えたユンジェは身を捩った。次第に、後頭部に汗が滲み始める。遂にユンジェは観念したように、分かった、分かったと声を上げた。
「じゃあ、良いんだな?」中年の目の奥が光った。
 良い訳あるか、クソが。
 踏みつける力が弱まった隙を見逃さず、ユンジェは中年が軸足にしている左足の臑を思いっきり蹴りつけた。物騒なスニーカーは没収中なので、容赦なく踵を使う。
「お前らと話していても拉致があかない、という意味な」
 中年が呻いて倒れ込んだ隙に、ユンジェは起き上がる。無様に転んだ上司の姿に血が上ったらしい若い男が、血気盛んな声で喚いている。懐に手を差し入れ、何かを取り出した。ナイフか、鉈か、はたまた拳銃か。だが、確かめるまでもなかった。土台、フェアな状況ではない。やり合う必要は皆無だった。
 ユンジェは船を取り囲む暗い海へ視線を投げる。墨汁を思わせる海はどこまでも深く、光を吸い込んでいる。時折、船の照明に照らされた海面にてらてらとした影が映り込み、怪しく揺れていた。三月の潮風は耳先が痛くなるほど寒い。海に入れば尚更だろう。だが、この釣り船の看板よりかは確実に居心地が良いはずだ。
 ユンジェは腹を決めると、船の外に飛び降りた。

 

 自分の人生を決定づける瞬間の到来を、自覚できる人間のほうが少ないだろう。大抵の人間は事が起こった後に、変容が訪れた後に、自分がこれまで立っていた場所からすっかり隔たれてしまったことに気付く。失った道へは戻れない。羽化した虫が蛹に返ることはないように、人はどんなときでも変化を受け入れて、転がって行かざるを得ない。
 ユンジェにとって運命の一瞬と呼べるのは、やはり四年前の八月だ。息苦しい熱帯夜で、しばらく雨の降っていない都内の空気は塵を抱え込み淀んでいた。
 当時ユンジェは、都内を走り回るタクシーの運転手だった。適当に高校を卒業した後、母親の知り合いの土木関係の仕事を紹介されたが馴染まず退職し、二番目に就いた職業だ。ユンジェはタクシーの運転手の仕事を、好きでも嫌いでもなかった。ただ仕事をしているうちに、人が生きると言うことは概ね、移動することとイコールなのかも知れないと感じるようになっていた。その点で、ユンジェは当時から運び屋だった。誰かをどこかに運ぶための仲介者。
 二人組の女を乗せたとき、特別な違和感はなかった。ただ双方とも、とても華やかな格好だったのをユンジェは覚えている。年上らしい女は肩紐の細いクラシカルなエメラルド・グリーンのパーティードレス、ユンジェと同い年くらいの女は肩を出したデザインの刺繍が細かい白いパーティードレスを着ていた。
 二人は支え合うようにして、後部座席に乗り込んできた。
「どちらまでですか?」
 ユンジェは行き先を聞いたが、急いたように「取りあえず出して」と言われたので車を発進させた。どこかの高級ホテルの前だったように思う。
 それから随分と長い間、ユンジェはエメラルドグリーンのドレスの女の指示に従って車を走らせた。漠然とした目的地があるような、ないような不思議な走行だった。わざと遠回りをしているような節さえあった。女が最終的に示した目的地は、四国だった。どう考えても、これから旅行に行く格好には見えなかったが、ユンジェは詳細を何も尋ねなかった。ただ、途中で車に酔った若い女のために何度か休憩を挟んでやった。飴を舐めておくと酔いづらいんですよ、と言ってクランベリーミントのキャンディーをあげた。
 徳島駅に到着するときには、既に空は白んでいた。女たちはクレジットカードで料金を支払い、朝靄の中に消えていった。
 その後のことは思い出したくもない。それから一週間もしないうちに、職場と自宅に妙な男たちが現れるようになった。男たちはとても堅気には見えず、そしてユンジェが乗せた二人の女を捜していた。クレジットカードの履歴から割り出したユンジェこそが、二人を最後に見た人間なのだという。非常に格調高い家柄の令嬢とその家庭教師が起こした逃亡劇の共謀として、ユンジェは挙げられた。事情を知らないことは理由にならなかった。男たちの訪問と暴力から逃れるため、ユンジェは出勤できなくなり、自宅にも帰れなくなり、屋根付きベンチのある公園などを転々と渡って生活するようになった。
 年末。教会で行われた炊き出しに行った帰りに、ユンジェは偶然あの日タクシーに乗せた女の片割れに出会った。若い方の女で、今はドレスではなく灰色のチェスターコートを着ていた。冬だというのにサングラスを掛けていて、それが悪目立ちしていた。
 女の方もユンジェに気付いた。女は薄汚れたユンジェの姿に一瞬驚いた表情を浮かべ、続いて「あっ、ア、そっか、あーっそっかあ!」と合点するまで声を出した。女は垢の浮いたユンジェの腕を強引に掴むと、そのまま自分が乗るタクシーに同乗させた。
 次にあの女たちに会えば自分は恨み言を言うだろうか、とユンジェは寒空の下でよく思いを巡らせていた。しかし、実際に顔を合わせてみると、そういう気にはまるでならなかった。あの夏の日、バックミラー越しに見た彼女たちの、やがて綻ぶことを決めた花の蕾を思わせる凜とした、同時に不安を押し殺したうつくしい顔をユンジェは忘れられなかった。
 逃げるのはいいことだ、とユンジェは思った。縫い付けられた場所が、自分にとって適切な場所とは到底限らない。特に、立場の弱い者であれば尚更だろう。
 タクシーの狭い車内には女がつけているバニラの甘い香水の匂いが灯っていて、目的地に着くまでの間、ユンジェは久しぶりに熟睡した。

 

「またジウが喜ぶじゃないか」
 泥だらけになって帰って来たユンジェを見たユビン姉さんは、バスタオルを寄越しながら言った。いつもどおり綺麗に化粧を済ませているが、明け方まで仕事をしていたのか、目の縁がほんのりと赤い。ユンジェは不死身を冠する下っ端としての報告と、若干の当てつけを兼ねてユビン姉さんのところに直行していた。
「ご期待に添えて何よりです」
「両手を縛られたまま海を泳いで来たんだって? 惚れ惚れする身体能力だね」
 どこから情報を手に入れたものか、ユビン姉さんはユンジェがどんな目に遭ってきたのか既に知っていた。大方、身を潜ませていたナタの情報網からだろう。
「海面から顔を出すタイミングさえ間違わなければ、そんなに難しくないですよ。それに本当に海を渡ってきたんじゃない。朝釣りを楽しんでいた休日のサラリーマンたちの船が運良く通ったんで、助けてもらいました」
「労働者の休暇をかき乱したな」
 早くシャワーを浴びろ、磯臭さが壁紙に移る、と急かされてユンジェは湯を借りた。熱いシャワーを浴びると、凍てついた身体がゆっくりと解れていく。浴室から出ると、ユビン姉さんがユッケジャンクッパを作ってくれていた。牛肉の旨味がスープに溶け込んでとても旨かった。ユンジェが意気込んで褒めると「レトルトだから黙って食え」と叱られた。
 腹が膨れると、ユンジェは猛烈な眠気を覚えた。自分の部屋に戻ってベッドに倒れ込み、死んだように眠りたかった。死ぬのは嫌でも、死んだように眠りたいと思うのは普通の願望だった。
 部屋から出る直前、ユンジェはユビン姉さんから小箱を渡された。柔らかなフロッキング調のそれは、指輪ケースだった。
「ついに、ジウにプロポースするんですか?」
「もう済ませてある」
「……」
「傷付くなら自分で言うなよな、面倒くさい」
 ユビン姉さんは顔をしかめた後で、それがユンジェが運んだ例のキャリーケースの中身だと説明した。
「軽いとは思っていましたが、指輪でしたか。もっと小さい鞄で運べば目立たなくて済みましたね」
「それは加工後。お前が運んでいたときは遺骨だよ」
 ぎょっと身体を強ばらせたユンジェに、ユビン姉さんの口角が少し吊り上がる。
 今回の依頼主は、とある資本家のお抱え愛人にされていた女性の妹で、急死した姉の遺骨を取り戻して欲しいという内容だった、とユビン姉さんは手短く話した。
「何でも、幼い頃に両親と死別した姉妹らしくてね。お姉さんの方は早くから夜の仕事を始めて、それで妹の大学費用まで稼いだ。ただ途中で、性悪資本家に気に入られて逃げられなくなったらしい。妹は同じ都内に住んでいるにも関わらず、何年もお姉さんに会えなかったそうだ。そして、このあいだ突然急死の連絡だけが届いた。理由は聞いても教えて貰えなかった。亡くなる数週間前、お姉さんから直接、逃げ出したいという留守番電話が妹あてに入っていた」
「それじゃ、五島列島で俺が会った女の子がその妹ですか?」
「あれも仲介人。依頼人じゃない」
 ユンジェがケースを開けると、ダイヤモンドの指輪が入っていた。〇.二カラット程度の小振りな宝石が、美しいブリリアントカットに削られ填め込まれている。遺骨の炭素を使ってダイヤモンドを作る技術があることはユンジェも知っていたが、実物を見るのは初めてだった。全然碌でもないものではなかったな、とユンジェは反省した。
「足が付かないように根回ししておいたのに、どこから洩れたんだか」
「俺のことしか分かってないみたいでしたよ」
「じゃあ、別にいっか」
「良くないです。今後の身の安全を保障してください」
 ユンジェが言うと、ユビン姉さんは考えておく、と応えた。それから思い出したように「でも生きている限り、本当の身の安全なんて担保されないもんだよ」と重ねた。
 ユビン姉さんはユンジェに、早く自分の部屋に帰って寝るように言いつけた。とにかく眠りなよ、すごい顔だから。
「ちなみに、今晩はジウのロシア語過程が終わったお祝いだ。ぱあっと美味しいものでも食べに行こう。ユンジェは車をお願い。上手に運転できたら、ご馳走してあげるのも吝かではない」
「焼き肉にしましょう、絶対に」
 ユンジェは力強く言ってから、ユビン姉さんの部屋を出る。

 

 終

代々(短編小説)

 本番に弱いんだ。ここぞ、というときに必ずハズす。不運、と言ってしまえばそれまでだけど、運にしては確立が高すぎる。よく「そういう星の元に生まれた」って言うでしょ。ああいうの、見苦しい言い訳と思う人もいるだろうけど、私には分かるな。自分の頭上にもきっと、そういう星がぴかぴかしているんだって腑に落ちるから。もしそうでなければ、私が生まれたときにパーティーに呼ばれなかった悪い魔女が怒り狂って、ふにゃふにゃの赤ちゃんだった私に呪いを掛けたとしか思えない。私は幼稚園以来、遠足の前日に熱を出さなかったことがない。運動会ではリレーの最中に靴底が外れるし、センター試験の会場に向かっていた電車はトラブルで遅れちゃうし、希望していた企業の最終面接の通知は郵便事故で届かなかったし、海外旅行の前日には台風で空港の連絡橋が流された。最近だと、他企業と合同で進めていた大切なプレゼン中に予定日でもないのに生理が始まっちゃって、しかも信じられないくらい血がドバドバでて、スーツを汚したとかね。こういうことがたくさん起きる。一つ一つは大事じゃなくても、当事者としてはいろいろと最悪なわけ。でね、悲しいことに段々と慣れて来るんだよ。何かが起こったときに、またか、と思うの。驚きや怒りや哀しみの前に、嗚呼また、っていう諦観が最初にやって来る。だから余計にトラブルに適切な処置が出来ないって言うかさ、初動が遅れるんだよね。
 彼女は一息に話すと、僕が淹れたアッサム・ミルクティーを口に運んだ。ティーカップを傾けるときに、オリーブ色のニットから覗いた痩せぎすの腕に、細い桜色のリストバンドとシルバーの腕時計が巻かれているのが見えた。時計は飾り気がないユニセックスなデザインをしている。彼女の短く刈り込んだ黒髪はボーイッシュを通り越しているように思えたが、骨っぽい骨格と切れ長の一重によく似合っていた。
 彼女は僕の淹れた紅茶を褒めた。以前、喫茶店でバイトしていたことを話すと、ふうん、と興味があるともないとも取れる微妙なトーンで返される。折角だからクッキー食べよう、空港で貰ったやつ、と彼女は言うと手元に置いていた真空パックの袋を破った。パッケージはベージュのシックなデザインで、MCPの企画ロゴと政府ロゴがさり気なく入っている。桜のマークをかたどった政府ロゴの一部は箔押しになっていて洒落ていた。先程までいたステーションの受付で、当選者にお茶請けとして持たされた菓子だった。
 僕は既にステーションで食べてしまっていた。彼女に勧められて一つ摘まむと、僕が貰ったものとは違う味だった。パッケージには「フルーツ味」と書かれている。三十年前に畜産業が潰え、次いで他の一次食物生産も破綻して以来、このような大味の表記が主流になったらしい。とはいえ、僕が生まれた頃には既に定着していたものだ。配給スナックのサラダ味、パテのピザ味、ドリンクのチーズ味などはとても美味しいと思う。祖母は未だに昔を懐かしんで配給食を嫌うが、どの家庭でも毎食素材から食事を作るだなんて、非効率な労働だ。その点、配給食は自宅の製造機から勝手に出てくるうえに、栄養バランスが適切で腹持ちもいい。
 僕たちはしばらく、クッキーを食べることに熱中した。僕も彼女も、お腹を空かせていた。搭乗手続きに時間が掛かったのだ。
 僕は甘い固形物体に口中の水分を吸わせながら、カプセルウィンドウから見える宇宙を眺める。国営テレビで何度も目にした無数の惑星の放つ繊細な光で満ちた宇宙空間はそこにはなく、ただ途方もなく深い暗さが横たわっている。別のセクトに移ればまた変わるのかも知れないが、いまのところは美しさなど微塵も感じられない。
 僕は紅茶のおかわりを注ぐ。二人が詰め込まれた小型ロケットにはオートセーブの小型操縦室の他に、四畳半くらいの生活スペースがついている。重力装置が作動していて、地上と変わりなく動くことが可能だ。
「だからね、このためだったんだ、と思った」
 最後のクッキーを紅茶で流し込んだ彼女は、思い出したように言った。話の続きだ。空になったクッキーの袋を丁寧に畳んで、くるりと結ぶ。
「応募していたMCPの選民当選に当たったとき、本当に信じられなかった。移住者枠はほぼ満了、残っているチケットは各国の要人の分しかない。抽選に洩れた人たちは地球と一緒にゆっくり死んでいくしかないんだって、もうみんなが長い時間をかけて受け入れて、諦めてきたことだよね。ひとつの種の繁栄は宇宙規模で見れば些細なことでしかなくて、その死滅も同等だってさ。なのに、最後の最後でこの私が当選した。ダメ元で送った一枚が、繰り上げ当選になるなんて信じられる? だから、つい思っちゃった。ああ、私がこれまで不運だったのは、このための運を貯金してきたからなんだって。そういう理解が、すうっと自分の中に降りて来た。馬鹿みたいに聞こえるかも知れないけど、救われたとさえ感じたよ。これまで私の人生の足を引っ張ってきた不運にも、理由があったと思えたんだ。本当に」
 彼女は言うと、薄く笑った。その顔は左右が非対称で、泣いているようにも見える。僕は手首のリストバンドに刻印された文字に目を落とす。
 彼女は両手を擦り合わせると、指についた粉を払った。言葉を続ける。
「最後に応募してみよう、って言い出したのは妹だった。おねえちゃん、まだ応募権残っているんでしょう。もう散々不合格通知が出された後だから、残り福があるかも、出してみなきゃ分からないよって。もちろん、私は当たるわけない、って断った。だって、私だよ? 私は地球で生活していても、楽しいことなんてなかったし、幸福でもなかった。だから、生き延びること自体に消極的だった。月に行くとかどうとか、正直どうでもよかった。とにかく生まれてきたことに疲れていたし、滅びるなら人類なんてどうぞ滅びれば良いと思っていた。私はあまり人類のことを好きになれなかったし――『善良な市民!』、笑っちゃうね。ついでに、MCP――「月面選民プロジェクト」とかいう非人道な足掻きに恥ずかしげなく参加して月に移住した奴等も、まとめて不適合症状でも起こして死んじゃえば良いと心から祈っていた。でもさ、そんな私でも妹のことは可愛かったんだ。二つ年下でね、看護師をしている。私は逼迫する地球で、今彼女がどんなに大変な思いをして働いているかをよく知っている。とても凄惨な状況で、だからこそ彼女が逃げないことも、また逃げられないことも、逃げるための措置を政府も誰も講じてくれないことも知っていた。だからさ、妹のためになら出せるかなって考え直したんだ。彼女を地球から連れ出してあげられるのなら、って。二週間前、桜色のリストバンドが二枚届いたとき、私は妹と抱き合って喜んだ。本当に嬉しかったんだよ」
 僕は、神妙に頷いた。
「今は、怒っていますね」
「もっと複雑。でも、許せないと思う」
「誰を?」
 その問い掛けに、彼女は答えなかった。


「そういう星の元、のそういう星って、どんな星なんだろうね」
 立ち上がった彼女は、先ほどの僕をなぞるように、カプセルウィンドウから宇宙を眺めている。楕円形に切り取られたガラス越しに覗く宇宙はやはり真っ暗で、塵や石が飛んでいるのが辛うじて見えるくらいだ。そこには夢のように美しい風景など、ありはしない。
 彼女は長いワイヤーを持っている。冷たさを思わせる銀色のワイヤーは細くなめらかで、彼女の右掌から床に向かって溢れ垂れている。発射直前のロケットに、本来なら彼女のすぐ後を追って乗ってくるべき彼女の妹に代わって乗り込んできた僕が一体誰なのかを尋ねる代わりに、先ほど荷物の中から取り出したものだ。
「碌でもない星というのだけは、確かでしょうね」
 ゆっくりと壁側へ移動しながら僕が言うと、彼女は肩をすくめた。
「碌でもなくない星というのがあるのなら、是非教えて欲しいけど」
 そこへ妹と行くから。そうしたら、あなたが今つけている妹のリストバンドはあげてもいいよ。
 彼女がそう言うので、僕は少し返事に困る。

 

 

(完)

 

お題「今年初めて桜を見た日、二人乗りの月行きのロケットの中で興味を向けられて戸惑うことについての話をしてください」

椅子とせいかつ

 

 この記事は、はとさん(@810ibara )主催の #ぽっぽアドベント 変わった/変わらなかったこと3 Advent Calendar 2020 - Adventar)の6日目の担当記事にリンクしています。

 書いているのは、通りすがりの人文学の顔ファン、かかり真魚です。

 はとさんのアドベント企画、今年のお題は『変わった/変わらなかったこと』です。

 1日に3つも記事が更新されるので、わたし自身すごく楽しんでいます。

 滑り込みの6日目、ご容赦下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 さあ、あしたもまた長い、いい日でしょうよ。
 しかも、はじめからおわりまで、お前のものなのよ。
 とても楽しいことじゃない!
                  『ムーミンパパ海へ行く』トーベ・ヤンソン


 2020年、変わらなかったことを挙げるほうが難しいような変動に見舞われた一年であったのは言うべくもない。
 COVID-19に関するニュースは年明けから世界で散見されるようになり、気付いた頃には渦中の真っ只中だった。
 私事としても、職業柄到底ないと思っていたリモート出勤も何度か体験することとなり「現場に身体がないのにどうやって働けば……?」と部屋の中で途方に暮れた思い出がある。友人との会合、イベント、映画、ライブ、とライフワークを形作っていた悉くが自主規制というかたちを取って奪われ、そして今のところ還ってきていない。
 感染症流行から一年を迎えようとしている今、脅威は収まるどころか増すばかりで、更にそれが対策の不作為としか捉えられない経緯から起こっていることを思えば、なおさら怒りと身悶えに襲われる。
 個人が生命や生活を脅かされた一年だった。一年、と区切ってはみたが、今後この状況がどれほど続くのか分からない。ワクチンが完成し、病原菌の感染拡大が収まったところで、元の生活が戻ってくるとは限らない。

 ところで、わたしがこれから書くのは生活の話だ。
 しかもこの時勢において、「生活を手に入れた話」である。
 世界的に生活の逼迫が言われる最中、わたしは人生で初めて「生活」というものを手に入れ、現在のところ、その観察や成長に心を傾けている。
 前置きが長い。引っ越しをしたことを書こうと思っている。

 

 

 

 とにかく学生の頃から忙しかった。
 というのも、やらなければならない事柄と出来る事柄とやりたい事柄がことごとく乖離していたからで、学業をこなしつつ、運動部に打ち込みつつ、その実一番やりたいのはオタク事、つまり本を読んだり映画を観たり小説を書いたりすることだったので、本当に時間が足らなかった。
 これでタスク処理が上手ければ、まだ何とかなっただろう。しかしわたしは注意欠損的な人間であり、またマルチ・タスク処理を大いに苦手とする。結果、日々あくせくと動き、四方八方に転がり回りながら生きる羽目になった。右手であんパンを食べながら左手でフレンチ・コースを口に押し込み、横目で簡易コンロを見ながら即席ラーメンを作っているような毎日、といえばそのトッチラカリと落ち着きのなさが理解して貰えるだろうか。
 今振り返ってみても、本当に落ち着きのない毎日だった。優先順位をもう少し付けていたら……と目を細める気持ちにはなるが、恐ろしいことに、優先順位を付けるという能力をわたしは未だに習得出来ていない。
 競技者一人(わたしだ)による異種運動会を二十四時間やっている人間にとって、生活とは何だろうか。わたしは正直、消しゴムのカスだと思っていた。衣食住に対して、これまで一切の関心がなかった。無論、それは実家暮らしにあぐらを掻いていたからこそ出来た話でもある。そしてあぐらを掻いていたからこそ、それらに対する慈しみも愛情が微塵もなかった。
 この文章を読んでいて、じんわりとわたしの「人任せ感」は勿論のこと、クズの如き性根が伝われば良いと思うのだが、どうであろう。恥ずかしいことであるが、黙っても出てくる食事、放っておけば洗われる洗濯物、そういうものをかなり最近まで何の疑問も無く享受して来た。
 言うまでもないが、生活に対して消しカス程度の関心しかなかったわたしの自室はゴミ箱同然だったし、ベットで寝ているのか本を敷き詰めた箱で寝ているのか不明だったし、いつも寝不足でふらふら、飲食にもあまり感心がなかった。(ただ見栄を張るタイプなので、おしゃれ着だけは好きだったことを付け加えておく。)
 こうした一人運動会の開催は、学業を修めて就職し、働くようになってからも変わらなかった。
 「生活」をしている暇がなかった。常に何かに追い立てられ、せいぜい死なないように栄養を取って、死なないように眠るのがわたしの生活の残骸だった。大学時代の友人はそんなわたしを「ちょっと強迫的なんじゃない……」と指摘していたが、仰るとおりだったと思う。
 そんな人間である。
 元来の心の狭さもあって、立ち寄った本屋に並んだ雑誌に書かれた「丁寧な生活」という見出しを見るたびに、失笑の思いがした。
 自分にはまったく関係がない事柄に思えたのだ。
 そんなものは、暇とお金がある人間がすることだ。
 そもそも、「人間に向いている人間」がすることでしょう。
 生活をきちんとするだなんて、こちとら生きているだけで必死なのに。
 そう思いながら生きてきた。
 幼い頃から、トーベ・ヤンソン著作『ムーミン』に描かれるムーミン谷のゆったりした生活には憧れを持っていたが、あれは舞台がフィンランドで、なお物語の世界だからだと言い聞かせた。
 だって、自分が自分であり続け、なお自分の好きなことをして、生活を大切にできるなんて、夢のような話だと思いませんか。

 

 

 実家を出る転機は、仕事の休憩時間に後輩と話をしたことだった。
 引っ越しやインテリアが趣味、というその後輩から話を聞いているうちに何となく気分が乗り始め、結局その一ヶ月後には県外のマンションに転移先を見つけて一人暮らしを始めた。
 渋っていた割に決め出すと早いのはオタクの性だろうか。否、オタクのせいにしてはいけない、個人の問題です。余談として、契約日が近づくに従って俄然うきうきした気持ちが抑えきれなくなり、頼んでいた寝具や家具が届く一週間前から部屋に入ってしまったのだが、今後初めて一人暮らしを始める人々にひとつ伝えることがあるとすれば、寝具だけは揃えてから引っ越しすることをおすすめします。
 さて、これまで仕事や原稿が忙しくなると、まず生活を犠牲にしてきたわたしである。一人暮らしを始めたところで、一体どうなることかと自分でも思っていたが――、これが驚くほどに適応した。
 身の回りのことを自由に世話する達成感や、あらゆる選択を自分で選べるという歓びをわたしは今年になって初めて知ったのだ。「これが生活というものかしら」という驚きや発見を、わたしは未だにし続けている。
 引っ越しにあたり、あらゆるものを己で決めて揃えた。部屋を決めたのも自分であるし、家財道具一式、洗剤や消耗品のひとつに至るまで好きに選んだ。広くはないが立地がよく、近くに小さな公園もあるマンションの部屋は素敵だし、派手さと落ち着きが同居する愛らしくも大人らしいラグを中心に、シックな灰色のソファ、ガラスのテーブルなど家具類はどれも気に入っているし、良い匂いのする柔軟剤や猫のかたちの食器洗い用スポンジなども、限りなくイカす品物だ。こういう「好きに出来る」自由さと「わたしのお気に入りたち」に囲まれて暮らす歓びが巧を成したらしい。わたしは手探りで家事を熟し、そしてお気に入りたちと暮らすことをじわじわ学んでいった。
 今では、仕事の日も出来うる限り自炊に努めている。更に、洗濯も週二回以上は回すようにし、部屋の掃除だって週一回は床磨きを含めて必ずしている。マメな人からすれば「その程度」かもしれないが、自分としてはあり得ないほどの進歩である。水道水をがぶ飲みするのではなく、麦茶を沸かすようになった。ベットのシーツを頻繁に変えるようになった。手触りのいいタオルを買った。玄関マットを洗うことを覚えた。きれいな食器を集めるようになった。可愛い下着で衣装ケースを埋めた。季節折々の花たちを部屋に飾る楽しみを覚えた。
 それまで全く関心がなく、軽蔑し、蔑ろにしていた生活の楽しさったらない。
 嗚呼、片付いた部屋の電気を消して、座り心地のいいソファーでぬるくなっていくビールを握りしめながら観る血みどろの韓国映画の素晴らしたるや。わたししか居ない夕餉である、映画『はちどり』を観た日の夕飯を急遽チヂミに変更することだって可能だ。毎日の紅茶を、シベリア鉄道で給仕されていると噂の(本当かしらん)ロシア茶葉に変更することも出来る。それを気に入った焼き物のコップに淹れて、本を開くことのいかほどの楽しさか。そして、それらの生活の合間に挟まれる家事は、自分の好きな空間を維持するための心地の良い労働や楽しみになった。
 わたしにとって、一人暮らしは人生に付いてまわる「雑務」を「生活」へと変化させてくれた。それはどちらかといえば、わたしが好んできた血が沸くようなスリリングさや三日三晩眠れなくなるような病的な興奮とは遠いところにあるものだ。ただ、それらにはぼんやりとした居心地の良さがあり、この「ぼんやりとした居心地の良さ」がとてつもなく良い。自分の輪郭を、何度だってわたしに与えてくれる。

 


 今年になって、「セルフケア」という言葉を知った。説明するまでもないが、セルフケアとは一般的に自分を自分でケアする行為を指す。社会情勢的に「自救」とも重なってくる言葉なので無闇に使うことは躊躇われるが、しかしそれ自体は非常に大切なことだろう。
 セルフケアは、自己肯定感を増す働きもあるという。それを知ったとき、なるほど、わたしがこんなにも一人暮らしに順応したのは、図らずともセルフケアに癒やされていたからなのか、と思った。
 冒頭でも述べたが、元来、人間として欠損の目立つタイプである。そんな自分が生活を楽しもうなどおこがましく、そもそも左様なマメさなどあるはずもない、とこれまでどこかで己を強く卑下していた。
 「部屋に招いた可愛らしい雑貨のすべてを一瞬にしてゴミに変えてしまう魔法使い」だと自分のことを、ずっとずっと、本当にずっと思っていた。その呪縛から解かれた一年だったと思う。
 ムーミン谷の住人たちが、なぜあんなにも伸び伸びと自由を楽しみ、自分であることを受け入れているのか、分かった気持ちがした。
 彼らのゆっくりしつつも、自恃と冒険心にあふれた逞しい佇まいは、あの素敵な生活と切っては切り離せないものなのだろう。彼らはいつだって歌を歌ったり、踊ったり、紅茶を飲んだりジャムを舐めたりハーモニカを吹いたりしているが、そういう生活の拠り所が、彼らの心のはばたきを支えているのだと思うのだ。


 

 なんだってできるわ。だけど、なにもやらないでいましょ。

 ああ、なんだってできるって、なんてステキなことなの!
             トーベ・ヤンソンムーミン谷の十一月』

 

 これはムーミンシリーズに登場する、かなりイカした女、ミムラの言葉だ。ミムラはミーの姉である。長い髪を靡かせてダンスをするのが得意。そして思い切りがよくて自由で、なにより自分が自分であることを謳歌している女である。
 あれもこれも、とコンテンツや趣味や仕事に気を取られ、原稿をしていないだけで何にもしていないかのような幻想と焦燥感に襲われ、強迫観念に駆られているときに、このミムラの思い出すようにしている。
 そうだ、わたしは何だって出来る。
 でも、別に「なんにもやらない」でいることも出来るんだ。
 それを含めて、わたしは自由で、素晴らしさを手にしている。
 ミムラの言葉を胸に留め置くようになってから、休日にダラダラ過ごしてしまったときなどの罪悪感も格段に減った。わたしには、何にもやらないでいるという選択肢もあるんだ、と思ってからは、無闇にあくせくするのをやめた。「あれもこれも……」と予定を立てていても、強迫的になっていると思えば、それらを白紙に戻して部屋で紅茶を飲んでぼうっとして過ごすこともある。そういうとき、通販で買った青色の美しい紅茶カップが可愛いと、無性にうれしい。どこにでもトクベツはあって、それは矛盾するが、トクベツでなくてもいい。
 自分を大切に出来る「生活」があることは、自分が自分として立ち戻れる、そこに座ってゆっくりとお茶を飲むことが出来る「素晴らしい椅子」があることなんだなと、思った。

 引っ越しをし、一人暮らしを初めたことで、自分の中で時間の流れ方が少し変わった。そして、生活をするなかで「なるほど、この人生はわたしのものなんだな」と不意に思うことが何度もあった。
 そういう瞬間の積み重ねが、わたしをとても励ましてくれる。
 これらの変化がなければ、「やりたいことも出来ない」今年一年は自分にとって、もっと強い苦痛に満ちていただろう。
 些細なことかもしれないが、わたしにとっては素晴らしい変容だ。

 

 

 

 以上です。

 明日7日目の担当は、ヤマワヌさん、草太郎さん、ロッタさんです。

 よろしくお願いします~!!!!

 

 

【再掲】男女BLとは何かー『映画ズートピア』にみる男女BL

 2016年に発刊された『BL俳句誌 庫内灯2』に寄稿した男女BL論の再掲です。

 主にフェミニズムとBLの関係に焦点を当てながら、当時ネット上で度々話題になっていた「男女BL」について書いたものです。

 発表当時から既に三年。フェミニズムクィアに関しては、意識改革や作品への昇華が急進的的なこともあり、今読むと古びた考えや表現になっているところもあります。私自身、もう「男女BL」という言葉は使っていませんし、概念としても周回遅れと感じます。『キャプテン・マーベル』や実写版『アラジン』が既に出ている世にあって、もはや何をいわんや。しかし、異性恋愛規範から脱出した男女の関係性を語る上で、男女BLという概念はひとつの「飛び石」として、まだ有効かとも思うのです。

 更に個人的にフェミニズムとBLの関係性については今読んでもよくまとまっていると感じたため、web再掲をすることに決めました。

 BLを求める気持ちや、何をBLに見出すのかといった部分が多義的で、個々に違ったものがあるというのは承知です。それを踏まえつつも、今回はフェミニズム的観点から読み解きを行っています。

 

 

 

 

 

 

 

男女BLとは何か ~映画「ズートピア」に見る男女BL~

【はじめに】
 「男女BL」という言葉が持つ矛盾は凄まじい。
 BLという言葉が主に男同士の恋愛を指すことを考えると、定義を根底から揺るがすような不両立な言葉の組み合わせが混乱を誘う。成り立つことがまず許されないだろう形、角のある球体だとか、あるいは酢豚の豚肉抜きのような意味の不明瞭さと齟齬を感じる。
 そもそも男女BLってなんやねん。と思う方も多数いるだろう。そう、男女BLという言葉は以前からフェミニズムに関心のある人たちの間ではでは多少やり取りされてはいたものの、主にここ最近ツイッターを通じて人の目に触れるようになった比較的新しい言葉である。
 最初に伝えておくと、「男女BL」とは、コンビやカップルが男同士でない、つまり性の組み合わせが男女であるにも関わらずBLっぽい感じがする、BLを感じるのと同じ脳で萌えてしまう関係性のことを指す。ここで、ほぼ等々の意味合いを持つ言葉として「やおい」を思い出す人も多いかも知れない。やおいという言葉は今ではあまり聞かれなくなったが、かつては男男でも、男女でも、女女でも何か一種の「きな臭さ」を感じる強い関係性にやおいという言葉は使われていた。(1)
 男女間でBL的な萌えを感じる作品についての回答をウェブ上で求めたところ、『TRICK』(2000)の山田と上田、『SPEC』(2010)の当麻と瀬文等の組み合せ等が上がった。また最近の映画であれば『パシフィック・リム』(2013)のローリーとマコ、または『マッド・マックス 怒りのデスロード』(2015)のマックスとフュリオサ、またディズニーの『ズートピア』(2106)のニックとジュディー等の作品やキャラクターも人気が高かった。
 この論文では、男女であるにも関わらず、私たちがBL的な世界観を持たせてしまいたくなるような関係性、つまり最近一部で「男女BL」と呼ばれつつあるものについて、焦点を当てて見ていきたいと思う。「せっかく男同士の愛を求めてこの本を取ったのに、なんで男女の話をされなきゃいけないんだ!」と憤りを感じる人も勿論いるだろう。その気持ちはとても分かる。しかし著者には今、BLというジャンルがまたひとつの転換期を迎えているように思える。その過渡期において、男女の絆を描いた作品をBL的に見るという視線が一定数あり、また「賛成はしないが、言いたいことは分からないでもない」という層がいる以上、やはり論じられてみても良いのではないかと思うのである。男女の関係性を描いているにも関わらず、「なんとなくBLっぽい」と感じてしまうふわふわしたものはどこから来るのだろうか。既にやおいという旧来からの良き言葉があるのに何故わざわざBLを被せるのか、また今後論を展開するにあたって、敢えてブロマンズとは違うアプローチで捉えたいのは何故かということについても言及していきたいと思う。


 
【BLの定義について】
 BLとはもちろん、ボーイズラブのことである。男と男の恋愛を中心とした女性向けの物語を指すために生まれた言葉で、もともとは耽美やJUNEから派生した言葉だ。
 BLを歴史として紐解くと、主に第三期に分けることができるとBL評論家の溝口彰子は述べている(2016)。溝口はBL史第一期を一九六一年~一九七八年の創世記(森茉莉や二四年組等の美少年漫画時代)、第二期を一九七八~一九九〇年のJUNE期(専門商業誌『JUNE』と同人誌拡大の時代)、第三期を一九九〇~現代(BL期)としており、更に溝口は第三期を一九九〇年代の第一期と二〇〇〇年代の第二期とに分けている(この第一期と第二期の差については後で詳しく述べる)。
 森茉莉の小説や二四年組の作家陣が描いた少年たちの愛の物語等を皮切りに、文学的で悲愴的な香りを持つ男同士の愛や絆の物語がジャンルとして耽美と呼ばれるようになり、やがて『JUNE』という雑誌の発刊を機にJUNE系としての定着を見せていく。そして、悲観的な物語が多かったJUNEへのある種のカウンターとして、つまり「男同士の恋愛であっても、もっと明るくポップなものが読みたい」という求め手によってBLというジャンルが生まれ、普及していったというのがBL史の一般的な見方である。
 男性同士の恋愛を描いた作品にボーイズラブという名称が初めて付けられたのは一九九一年に創刊されたBLコミック誌『イマージュ』の創刊号においてだが、耽美と区別されるものとして別の名前が欲しかったために「男の子同士の恋愛を描いたものだから、ボーイズラブだろう、と深く考えずにコピーをつけたような気がします」と、当時イマージュの編集長であった霜月りつはBL黎明期を振り返るインタビュー集『あの頃のBLの話をしよう』(2016)で語っている。BLはかつて耽美やJUNEのカウンターとして生まれ、別の意味合いを持っていた。それは、耽美系と呼ばれる作品からこぼれるものがあり、それを掬う皿としての役割があったためである。
 今、BLという意味の拡大化が進んでいるが、その理由の一つとしてJUNEややおいという言葉が表舞台から姿を消しつつある状況が挙げられるだろう。雑誌『JUNE』の休刊以降、痛みを伴う男たちの物語の行き場は失われてしまったようであった。が、無論それらを好む人たちが消えてしまったわけではない。結果として、かつてはJUNEには馴染まないポップな男同士の恋愛を求めて生まれたBLという呼び名を持つジャンルが、現在ではJUNE的な要因を持つ作品も吸収している。それは、中村明日美子ルネッサンス吉田といった耽美的、JUNEっぽい作品を描く作家がBLレーベルで好評を得ていることからも明らかである。漫画家のよしながふみも、このところのBL傾向について「またJUNE的なものへの回帰を感じます」(2016)(2)と述べている。
 BLというジャンルは、広義でみれば実のところ非常に幅広い作風や作品を網羅する。それは、創世期やJUNE期において書き手や読み手が常に「愛とは何か」を問い続けてきたジャンルから生まれたことと無関係でなく、また規定の枠にはまらない、一般には好まれないとされるような描写や設定の物語を受け入れてきたジャンルだからでもあるだろう。
 ここで、『庫内灯』第一号(2016)の編集長の佐々木紺の言葉を引用しようと思う。

 さて、BLとはボーイズラブの略称であり、狭義には少年同士の恋愛のことですが、BL俳句で指したい「BL」にはリアル~美少年愛、場合によっては男女や女女、性別不詳同士の関係も含まれると思っています。どこまで通じているものかは分からないけれど、私個人としてはヘテロではない関係性のことをBLと呼びたいです。(この辺りどこまでどう指すかはかなり個人差がありますし、この考え方は一般的ではないと思いますが……。)
 恋愛がヘテロのものではないという可能性があること、あるいは恋愛とは違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。

 ここで佐々木のいうBLは飛び抜けて広義的ではあるが、BLというジャンルが、何かを囲ったときにそこから溢れていってしまうものをすくい上げて来たジャンルであることを思えば、あるいはBLのひとつの捉え方としては肯けるのではないだろうか。
 著者は、何故BLを愛するのか、何をBLに求めているのか、どんなBLを愛し何に萌えるのか、という問いかけは個人のたましいの問題なのだと思っている。それぞれが感じている生き辛さや抑圧を、このジャンルは救ってくれる。それゆえに、「これこそがBL」と決まった定義を決めることはとても難しい。それらを踏まえたうえで、あまり一般的ではないことを承知で、この論文内ではBLという言葉を広義的に捉え、佐々木が提唱したような「ヘテロではない関係性」として主に用いたいと思う。

 

【女であることの苦しみと「BL」】
 BL愛好家の殆どが女性である理由について、BLというジャンルが女性の持つ「女としての苦しみ」を解き放つものだからということは、既に今日まで繰り返し言われている。(もちろん、男性であってもBL作品を愛好する者は少なからずいる。その理由としては、一時期指摘された過激なポルノ性の他に、「男らしさ」の強要としての男性性を解き放つ部分が存在するからではないかと著者は考えている。しかしここではまず、BLと女性の関係に焦点を当てて見てみたい)

 BLと女性との関係について、溝口の発言を引用してみよう。

 BLの楽しみ方、いいかえればBLによってもたらされる快楽は、BL好きの女性の数と同じだけのバリエーションがあるといっても過言でないだろう。だが、あえてその快楽の一面をまとめるならば、次のように言えるだろう……女性の様々な願望が投影された男性キャラたちが、「奇跡の恋」に落ちる物語であり、女性が、家父長制社会の中で課せられた女性役割から解き放たれ、男性キャラクターに仮託することで自由自在にラブやセックスを楽しむことが出来るのがBLである、と。(溝口/2016)

 既存の異性愛物語を模倣するような物語構成の話が多いにも関わらず、BLジャンルが持つ特別な自由さの理由は、未だ家父長制が根強く残る現代社会において女性では手に入れることが難しいもの、つまり男と男の間には前提としてあるだろうとされている「他者との対等な関係」が作り出せる世界にある。
 またそれゆえに、受と攻の役割分担が自らなされるという自己決定権の存在も挙げられる。男女の恋愛物、かつ男女の役割がステレオタイプに描かれた物語では、女性はどうしても抑圧的、被支配的な立場に置かれる。異性恋愛規範が投影されたヘテロ作品はまだまだ世に溢れ、そして一部では何の疑問も持たず消費され続けている。男女平等が謳われるようになってかなりの年月が立つが、今でもジェンダーによる格差は根強く存在しており、ドラマやマンガ等のフィクション、あるいは広告などにも反映されている。
 一部の女性がBLに対して感じる特別さというのは、異性恋愛規範――男女で結婚して家庭を作り、男は外に出て女は家庭を守るというような、人生はこうあるべきというプロトタイプ的な関係性の強要からのエスケープ、反逆から来るものである。「男に尽くす恋愛こそが女の幸せ」という価値観を女性たちは長いあいだ植え付けられてきた。メディアなどではしばしば、男性や家庭のために自分や自分の人生をすり減らす女たちの姿が、美しいもの、美談として語られてきた。しかし、何故女はそのように窮屈に生きなければならないのだろう。そして、何故規定的な恋愛のため(相手である男のため、そこから派生する家庭のため)に犠牲にならなくてはならないのだろう。無論、恋愛自体は(無論それに伴う家庭も)悪でも堕落でもない。しかし、自己犠牲を伴う恋愛しか許されない、自らの夢や自由を棄てて恋愛を選び続けることでしか価値を許されない、認められない社会というのは悪であり、堕落した場である。女性はこれらの価値観の中でずっと抑圧されて生きてきた。そこからの脱却装置として、あらゆる面でBLジャンルは癒しとしての作用を持っているのだ。
 BLは現在抑圧されて生きざるを得ない女性にとっての救済装置であると共に、はばたきの翼である。BLジャンルにおいてあらゆる職業ものが充実しているのは、やはり抑圧の問題と関係しているのではないだろうか。BLの世界においては、ふたりの「絆」の物語であることはもちろんだが、主要人物たちの生きる世界にはあらゆる仕事があり、夢があり、未来が広がっている。そういう自己実現への道が開かれている世界で起こる様々な関係性の物語が、BLジャンルの特性とも言える。それらの世界に対して読者は、ときに登場人物に感情移入したり、また二人の働くオフィスの観葉植物になったりして接近し、楽しむことが出来るのだ。
 女性では得られないがゆえに、男性のコミュニティーの中に入り込んで自在に遊ぶという姿勢がある以上、かつてのBLジャンルは非常にミソジニー女性嫌悪)的でもあった。いわゆる「女なんて」の世界であり、女性性として押し付けられる窮屈をありありと感じているが故に、救済装置であるBL作品においてすら、というか弁証論的に必然として、女性の立場は被支配的なところに置かれたままであった。
 しかし、これについては現在変化が見られる。冒頭で紹介した溝口のBL史論についてであるが、溝口は第三期であるBL期を一九九〇~現代と置き、更にこれを一九九〇年代の第一期と二〇〇〇年代の第二期とに分けている。この後期において、溝口はBLが進化していると述べている。どのように進化しているのか――以下に抜粋したい。

 BL史三期第二部の二〇〇〇年代以降、女性性や男性同性愛者の扱いについて、既存の女性の役割に異議をとなえ、現実よりもより同性愛者でも差別されず生きやすい(ゲイ・フレンドリーな)世界を描いた、進化したBL作品が増加した。言い換えれば、ミソジニー女性嫌悪)やホモフォビア(同性愛者嫌悪)、そして異性愛規範についての三点についての進歩、進化であり(以下略/2016)

 溝口は、かつては女性性からの逃避であり、ジェンダー的約割を選びなおすという自由はあるものの、異性恋愛規範に囚われたままであったためにBL世界においても発生していたミソジニーホモフォビアを問題視し、克服する作品が増えていることを指摘し、またその理由として「ゲイたちに対する視線」を通じて(4)、マイノリティに向き合う姿勢を持つ作家が増え出したからだと主張した。例えば、一昔前であればBLにおいて女性の姿は厳禁であった。BL作品に登場する女性は主に、過去に受や攻と関係を持ったことがあり、彼らの素晴らしさや彼らの現在の関係性をより引き立てるための当て馬としての存在や、腐女子として男たちの姿を楽しむ読み手の投影としてのメタ存在としてしか許されていなかった。しかし、現在多くのBLで、女性にも人間としての深みや厚みが描かれるようになり、また主人公格の男たちと同等の立場に立ち、彼らを導いたり見守ったりする魅力的なキャラクターを見られるようになった。リブレ出版から、秀良子、志村貴子ふみふみこ等が描く『女子BL』(2015)と題するBL作品に登場する女子たちに焦点を当てたアンソロジーが発刊されたのを覚えている人もいるだろう。
 また、ホモフォビアについても、彼らが現実に存在したらどのように周囲から捉えられ、また生きていくだろうかということに真摯に向き合って描かれた作品が描かれるようになってきた。これはかつて、男とセックスをしておきながら「おれはホモじゃない!(ゲイ・コミュニティーへの拒絶)」という台詞がBL作品内で飛び交っていた以前とは、書き手も読み手も意識が変わってきたことを示している。
 BLというジャンルは、女性が生きる「あまりにも余白の少ない圧迫的強制的な現実」へのカウンターであり、また直視するにはあまりにも苦しい傷や痛みから守られるための、クッションに囲まれた場所でもある。そしてそう言った場所であったからこそ女性たちは、改めて自分や周囲に目をやり、自らや相手の負った傷や痛みについて向き合って、考えることができたのではないか。
 受けや攻めに対する感情移入論で語られたり、ポルノ性のみが大々的に取り上げられたり、または全く自分を切り離した「痛みのない遊び」として語られることのあるBLだが、実際のところBL世界が内包するのはもっと多様なあり方で、ときにたましいの問題とでもいうべき重要な場所に踏み込むことを、真にBLを読んでいる人は実感しているだろう。BLというジャンルがあったからこそ、見えるようになった傷、向き合える問題というのがあるのだ。

 

 

【男女でBLは可能か】
 BL界でマイノリティに対する目線が変わってくるのと同様、ここ最近マイノリティに対する視線や考えを深く掘り下げて創作された大衆向け(つまりBLジャンルではない)作品が、あらゆるところで見られるようになった。法や周囲の偏見と闘うゲイカップルの姿を描いた『チョコレートドーナツ』(2012)や男女もののバティを描き、それを意識的に恋愛関係にしない『パシフィック・リム』等のタイトルを挙げておこう。
 『パシフィック・リム』は地球を襲う怪獣と戦う男女のバティを主人公に置いた作品だが、二人がイェーガーと呼ばれるロボットに乗り、意識をシンクロさせて戦うという設定がこの物語の肝である。意識を連結させるがゆえに、二人はお互いの傷を知るようになり、痛みを分かち合う。最初ぎこちなかった二人がやがて最高のバティとなり、ラストには死地を越えて地球を救うのだが、青い大海原を背景に二人きりで見つめ合ったローリーとマコが、情熱的なキスではなく、おでこをコツンと合わせたところでフィナーレとなったことに驚愕した人も多いはずだ。
 恋愛以外の関係性であっても男女が絆を求め合って良い、それは自然なことなんだというメッセージが、今主に海外映画でよく描かれているように思える。『マッドマックス 怒りのデスロード』は公開当時から非常に話題になったが、特に女性に人気があったように感じられた。あらゆる部分で見所のある映画だったが、特にミソジニーに対する問題意識の視線の鋭さはここ最近の作品の中では群を抜いていた。その中で、産むためのみの存在として扱われる女たちを開放しようと戦うフュリオサの存在は圧巻だった。主人公マックスと対等に渡り合い、絆を作り、強く前へと進んでいく彼女の姿や、マックスとの背中を預け合う関係性にため息をついた人も多いだろう。
 そして、そんな男女バティの関係をBL的な目線で楽しむ人たちもいた。ただ、これに関してはどちらかというと「萌えるけど恋愛じゃないところがいいから!」という、いわゆる広義のBL的なところに含まれる領域で、盛り上がっていた人が多いようである。

 そして遂にこの論文の命題である男女BLについて、本年映画公開となり大ヒットとなったディズニー映画『ズートピア』(2016)を題材に見ていきたい。
 ズートピアの主人公は幼い頃から警察官を夢見てきたウサギのジュディー。大人になり、夢を叶えた彼女が世界初のうさぎの警察官として、都会――肉食動物と草食動物が一緒に仲良く暮らす街、ズートピアにやって来るところから物語は始まる。そしてズートピアで多発していた連続行方不明事件を、ひょんなことから出会った詐欺師のニック・ワイルドとコンビを組んで解決することになる。二人の活躍で行方不明事件はめでたく収束へと向かうのだが――やがて、物語は思いがけない方向へと走り出していく。
 ズートピアという映画自体が、マイノリティである存在、また偏見について深く意識を払って作られた作品である。物語の登場人物たちはすべて動物だが、そこに立ち現れている性質や人格、心の動きなどは生々しいほどに人間そのものである。また、夢が叶う街、平等な街と謳われるズートピアにおいてさえ偏見が根強くあること、偏見を持つのは悪人ではなく「普通の人」「別の場所ではまた迫害を受けてきた人」でありえること等にも、焦点を当てている。
 語るべきところの多い映画だが、まずこの作品においては、主人公格のウサギのジュディーとキツネのニックの関係がとにかく良い。初めは反目し合っていた二人が互いを尊重し、弱さを支え合い、痛みを共有したパートナーとなっていく物語は優しさと哀しさと強さにあふれていて胸を突かれる。更にこの二人は対照的な属性を多く持っているという設定なのだが、その異なりを時に絆によって、時にそれらの属性が旧世代のラベルングでしかないという枠の破壊をもって超越していくところも見所なのだ。物語内で何度も描かれる肉食動物(捕食・搾取側)と草食動物(非捕食・非搾取者)としての対照、男と女としての対照、またステレオタイプ的なキツネ(ずる賢い性格)とウサギ(お人好しでまぬけな性格)の対照等を一例として挙げておこう。これらの属性や偏見を、ジュディーとニックは共に協力し合う内に解きほぐしていく。向かい合った二人は個として相手を見つめるようになり、「何だかあなたって、実は私みたいね」とお互いの痛みや優しさを発見し合って行くのだ。
 この作品が公開され話題になるや、インターネットでも数多くの反響があり、またファンアートが描かれた。実際、ニックとジュディーの関係に夢中になった人は沢山いた。繰り返しになるが二人のバティの関係性は見ているだけでワクワクするような面白さがあり、またBL愛好家の目線で言うなら凄まじい「萌え」を含んだものであった。
 先程紹介した映画と同等、描かれている物語の範囲でニックとジュディーは恋愛関係にはならない。最終的に二人は「仲間」として共に歩んでいくラストを迎えるのだが、今後二人がどのような日々を歩んでいくのか、もっと見てみたいと思わされる仕様になっている。そしてネット上では「このあと、ニックとジュディーは付き合っちゃうんじゃないの!?」という意見も多数上がった。事実、二人は非常に良い関係でエンドロールを迎えており、今後恋愛に発展しても可笑しくはない感じである。しかし、「ニックとジュディーの関係がめっちゃ萌えてやばくて死ぬ!」と心を震わせている人々は、ラストがどう、というよりかは作中の二人の関係の描かれ方で既に「付き合っちゃいなよ!」となっているのである。このときめきに関して、古典的な異性恋愛規範的なものではなく、先ほど述べたBL萌えとでも言うべき独特の情熱によると見受けられる層が一定数いたように思う。これはやはり作中で描かれるジュディーの主体がしっかりしており、男(雄)であるニックと対等な関係を築けていたことが強い要因になっている。二人の均衡した力関係とユーモラスなやり取りが生み出す仲間としての親密性と、それゆえに踏み込み難い性愛への危うさが楽しいのだ。
 そしてまた、そんな二人の絆を恋愛に当てはめるなんて面白みがない、二人は恋愛以外で対等に結ばれているからこそ良いのだと主張する者も多く、鑑賞を終えた者がツイッターなどでニックとジュディーの関係性の妙について語る図がよく見られた。ニックとジュディーの関係は、男女が恋愛関係でなくても強く結ばれることができるという希望の意識を届けてくれるので、それが琴線に触れた者は彼らをバティとして成り立たせておくことに価値を感じるのである。二人の関係を恋愛にしないことに萌えを感じる層についても、「やおい」にルーツを持つ広義のBLとして語れる部分があり、耽美やJUNEを流れに持つBLお得意の「愛とは何か」という問いが感じられて面白い。
 余談だが、この映画のラストにニックがジュディーに向って「おれのこと、好きなんだろ?」と問いかけるシーンがある。このときのジュディーの回答が実にニヤリとさせられるものなので、是非英文の方で確認していただきたいと思う。
 BLに癒される女性は、不自由で歯がゆい「社会から押し付けられた女性性」を脱ぎ捨てて、夢の地であるBLワールドではばたいて来た。女性が受け身であることが予め定められている社会の息苦しさから逃れ、また役割や制度を超えた「本物の何か」を探し出すために、BLというジャンルに手を伸ばしてきた。その事を思うと、「男女のコンビでBL的な萌え方が出来る」ようになっている現代は、随分進化してきたのではないか。女であっても個別的であり、誰とでも対等な関係を築けるというメッセージの発信を受け取った者がそれを受け入れることにより、男女BLは成り立つのである。それはやはり、女性を抑圧してきた家父長制度や異性愛恋愛規範からの脱却である。前記した佐々木の「ヘテロ恋愛」というのも、男女の恋愛というよりかは異性恋愛規範に則った関係を指していると考えられる。つまり、同じヘテロカップルであっても従来の異性恋愛規範的な関係と、それらを脱した互いの存在が対等である男女BL的な関係は、ある程度区別されるべきなのではないだろうか。
 かつて男女のやおいと呼ばれていた関係をあえて「BL」とするのは、その萌えの根源にあるものをBLに関わる視点から一度解き明かすことが必要と感じるからである。星空を求めて旅立っていた我々が、空を飛ばなくても星を手にし得るという気づきにより手のひらに星を包むことができること、その可能性を希求すること――これが、著者が男女BLと呼ぶものたちの持つ光なのである。

 

【「男女BL」のこれから】
 BL的な萌え方が出来る男女の組み合わせは、色々あるようで実のところ幅が狭い。というのも、男女間でBLっぽさを感じる作品として挙げられるその殆どが、刑事物や戦闘物、または何かしらの才能や能力に関わる作品なのだ。男女でBL的な萌え方をするには、くり返し述べるように男女に同等の価値が認められ、同じフィールドに立っていることが必要となる。それは無論「存在の大前提としての対等」とでも言うべきものが望ましいが、現状では女性の方に有能さや心の強さ等を託し、男性と同等に渡り合える女性という一面を強調しなければ難しいようである。BLであれば「石油王と取り柄のない男」の組み合わせはあらゆる萌えの可能性を孕んだ関係性として勿論成り立つ。しかし、これが「石油王と取り柄のない女」であれば、BL的な萌えを感じるのはかなり難易度が高くなってしまう気がする。注意をしなければ古典的な異性愛規範的な物語として回収されてしまうような――この「注意」とは一体なんなのだろうか。著者はつくづくと考えてしまう。
 一時期、狭い範囲ではあったがウェブ上で「男女BL」が議論された。その際に見受けられたのは、男女BLという呼び方は不適切であるといった主張である。もっと他の良い名前があるのではないかという意見、またBLに「男女」を冠することで、損なわれるものが確実にあるだろうという意見等があった。実際のところ著者は、男女BLという名称を流行らせたいわけでも、固定させたい訳でもない。この関係を「男女BL」と敢えて呼んだのは、繰り返しになるが問題提起のためであり、また亜流ではあるが思想や希求の問題としてBLに繋がりがあると感じるからである。現在、目に入り始めている男女でも強い絆で結ばれることができるというメッセージを受け取るにあたり、かつて女性性を排することで楽園として成り立っていたBLの「萌えの関係性」を読み取り、求めていたものを明らかにし、改めて私たちがトキメキを覚える男女の在り方の文脈を見つめ発展させる目を持つことは、無意味ではないと思う。
 本論文において「男女BL」という名称を与えた関係性については、これから女性たちが自覚的に希求していくだろう関係性へのひとつの飛石、架橋になるのではないだろうか。恐らくもっと明らかに語られるようになるとき、それらはBLのかたちをしていない。しかし、それでいいのだ。BLは常に抑圧されたり、溢れたりしていくものを掬い上げてきたジャンルである。そこから何かが位置づけられて、旅立っていく。そしてまたBLは、それらから溢れた別のものをすくい上げていくだろう。
 これは、やはりBLに関する話なのだ。そしてまた、かつて女性たちが苦しさ故に切り離して来たものへの希求を明らかにし、受け取り掲げることができる朝、自らの性に対し一度は諦めてしまった関係性を強く顔を上げて迎えるための兆しの話、次にやって来るだろう新しい暁のための試論である。
 
 
 
(1) よしながふみの対談集「あのひととここだけのおしゃべり」に男女のやおい関係についての言及がいくらかある。よしなが「以前、三浦しをんさんともお話したんだけど、「やおい」って単語を、私や友達の腐女子の人たちの間では、昔っから男の人同士以外のことにも使ってきたんです。よく例に出すのは、『ケイゾク』の真山と柴田の関係とか。『トリック』の山田と上田の関係とか。男女なんだけど、彼らの関係は恋愛じゃない。見た目仲良くないんだけど、お互いの力を認め合ってて、それでその人が本当に困ったときには手を貸してやる関係みたいなものを、やおいだと私らは呼んでて。で、『NANA』のナナとハチもやおいなんじゃないかって。羽海野「うんうん」よしなが「やおいの定義が違うんです。別にそれで同人誌を作りたいって言うんじゃないの。そこに何か、「きな臭い」ものを感じる時に使うんです。」(よしながふみ×羽海野チカ「女同士でも男女でもやおいな関係」の章より。) かつて多用されていたこのようなやおいであるが、現在では使われることが少なくなり、若年層では知らない者もいるだろう。「BL」というジャンルが拡大化するにあたり、JUNE同様「やおい」的なものもBLという言葉に吸収された一面がある。本論文にあたり彼らの関係性をBLと置いた理由の一端には、現在やおいという言葉がほぼ使われなくなりつつあるという現状も関係している。

(2) (最近のBLに関して感じる変化について) よしなが「今になって、またJUNE的な物語への回帰を感じます。個人的には、中村明日美子先生の活躍が印象的です。二〇〇三年に中村先生が『マンガ・エロティクス・エフ』で『Jの総て』の連載をされたとき、これはいまのBL誌には載らないものだなと思って、それが残念だったんです。こういう作品をBL誌が受け入れて、BLでヒットしたら何かが変わるんじゃないかと思っていました。『JUNE』が休刊当時、BLでは痛みを伴う恋愛というのが描けない状態に陥ってしまったなと思っていたんですよね。もともとBLは『JUNE』のカウンター的な存在でもありましたが、JUNE的なものがすきな人ももちろん存在しているわけで、それは現在も変わっていないと思います。だからこそ、その後、中村先生が『薫りの継承』のようなJUNE的、退廃的な雰囲気と美しさを持った作品を『BE・BOY GOLD』でお描きになったときというのは、個人的にすごく感慨深いものがありました。」(ボーイズラブインタビュー集『あのころのBLの話をしよう』より抜粋)

(3) 一九九〇年代の初頭、女性誌を中心にゲイが流行したいわゆる「ゲイ・ブーム」と呼ばれる年代があった。現代にも残る風潮であるが、ゲイによる「アート的で繊細且つ大胆、女を超えた男たちによる過激なメッセージ」を女性たちは求め、またそのようなゲイたちと友達になることが一種のステータスのようになった。しかし、これは美しく才能のあるゲイにしか光を当てておらず、いわばその他多くの「普通のゲイたち」の存在を認めないことでもあった。そのゲイブームの真っ只中である一九九二年より「やおい論争」と呼ばれる一連の記事がフェミニズム雑誌『CHOISR』に掲載されるようになる。これはゲイ男性・佐々木雅樹による「やおいなんて死んでしまえばいい」というエッセイにやおい愛好家たちが応答する形でしばらく連載されたものである。エッセイ「やおいなんて死んでしまえばいい」はタイトル通り過激な文言から始まり、男同士のセックスを好き勝手作り上げ消費しながらもリアル・ゲイに対しては全く向き合わず、「放っておいてください」と言い続けるやおい愛好家たちを非難する内容のものである。しかし、最終的には双方の歩み寄りへの言葉を零すなど、一方的にやおい愛好家を攻撃するだけのものではない。佐藤氏のエッセイに現れるやおいに対する複雑な感情については、文章全文を読まなければ受け取ることができないだろう。消費対象として扱われる窮屈さから抜け出したことで、また別のマイノリティを消費する立場に立ってしまったことを、やおい愛好家はリアル・ゲイたちの存在を認識することで知る。ここから、BLが同性愛嫌悪について向かい合う必要が論じられるようになった。「やおいなんて死んでしまえばいい」に関する詳しい経緯や全文は溝口彰子「BL進化論」で読むことが出来るので、興味がある方は是非一読してもらいたい。

参考・引用文献
 溝口彰子(2016)『BL進化論:ボーイズラブが社会を動かす』太田出版
 よしながふみ(2007)『よしながふみ対談集:あのひととここだけのおしゃべり』太田出版
 三浦しをん(2006)『シュミじゃないんだ』新書館
 かつくら編集部(2016)『あの頃のBLの話をしよう』桜雲出版
 金子敦子(2014)「ボーイズラブの歴史」『美術手帖』2014.12 P78~81
 松井みどり(2014)「少年の器、少女の愛:24年組とBLマンガの交差点」『美術手帖』2014.12 p131~137
 
ズートピア
 原題:ZOOTOPIA
 二〇一六年アメリカ映画
 監督:バイロン・ハワート
    リッチ・ムーア
 配給:ウォルト・ディズニー

シャブ漬けにうってつけの世、あるいはスプートニクの犬

 映画『毒戦』を観てきた感想。二回観に行きました。

 

 1957年の11月3日にソビエト連邦が打ち上げた世界初の宇宙船スプートニク2号に乗り、有人宇宙船の実現へと導いた伝説の犬の名を『ライカ』という。

 語り継がれた挙げ句、今では擦り切れた話であるが、この宇宙へ旅立った夢の先立ち者のように言われている犬は正確に言えば人間のエゴイズムに振り回された挙げ句、使い捨てにされ壮絶な死に方をした受難犬である。ライカは本来、モスクワあたりをさまよっていた只の野良犬であった。

 『毒戦 BELIEVER』では最初、合成麻薬の名前として登場するこの名称は、やがては工場爆破の際に重傷を負った、ラクが可愛がっていた犬の名前だと判明する。ライカ、と言う名前を知り得、更にそれを呼ぶ者として雪原に立つ小さな小屋の中でラクとウォノが向かい合うラストは、まるで地球から切り離された孤独なスプートニク号そのもののように見える。

 観る前の印象は『毒戦』という禍々しい名前も相まって、韓国映画お得意の狂気走ったノアール映画なのだろうと思っていた。結果としてその予想は正しかったが、派手なアクションや身が縮むような暴力シーン、急展開のサスペンスといった充実したノアール要素の裏側に、非常に繊細な哀しみと狂おしいまでの希求が<張り付いている>映画だった。

 冒頭でおとり捜査に使おうとしていた顔なじみの少女が言う「世の中腐ってる。だから薬をやるんだ」という言葉は先達として、この映画を引っ張っていく。韓国最大の麻薬組織に君臨する支配者にして誰もが姿を知らない”イ先生”を追う麻薬取締班の刑事ウォノは、イ先生によって起こされたという工場爆破事件の生き残りであり、バイヤーとの通信役でもあったラクをチームに引き入れて事件を追っていく。

 映画を通して描かれるウォノとラクの信頼関係の綱引きが、この映画の醍醐味である。刑事としての非情さを持ってラクに接しなければならないウォノが、それでもラクに信頼を寄せてしまいそうになる揺らぎ。一方「あなたを信じます」と拾われた子犬のように一貫してウォノに協力的な姿勢を見せるラクの姿と、他方それを疑わざるを得ないような事態の発生。二人の間にぴんと張られたワイヤーの、手を触れたらたちまち指が落ちてしまいそうなほどの鋭さと切なさを携えた共振が露わにされていく。

 ウォノが身に付けなければならない非情さは、悪に立ち向かうゆえであった。しかし、故に内心では可愛がっていた顔なじみの不良少女に優しくすることも出来ず、遂には捜査に利用した挙げ句命を落とさせる羽目になる。行き場のない少女を助けるどころか、彼女を傷つけ搾取する側に立ったのはウォノ自身だった。

 彼女の弔い合戦のように捜査に打ち込むウォノは、また同じようにラクに対しても素直に心を明け渡すことが出来ない。哀しみに濡れながらも芯の強いラクの姿に心惹かれ、信頼関係を築いていきながら、それを表出することも、まして認めることも出来ない。

 一方でラクの出生の秘密は、ウォノの中で自分のせいで死んだ少女と重なるものだっただろう。麻薬組織に組み込まれた生活をせざるを得ないラクは、最初から多くを奪われた流浪の人間だった。誰からも切り離されて、点滅する生命。この重なりは、二重になった秘密の最後の一枚扉が開くときに顕著になる。

「世の中腐ってる。だから薬をやるんだ」

 多くのものを奪われながら生きざるを得ない、哀しみを抱いた人間たち。彼らは暴力と金と薬物の前に、更に搾取され、ぼろぼろに傷つけられる。真実よりも体裁が先行する社会も、優しさよりも目的を取らざるを得ない矛盾も、この膿んだ社会では当たり前のことなのだ。

 追い求めていたイ先生と今回起こった事件の首謀者が別人であるということが露わになっていくのと同じくして、ラクが繰り返し言う「僕は誰ですか」という存在の不確かさと途方もない虚無が物語に浮かび上がってくる。

 自分が何者であるのかを定義づけられるのは、自分しかない。

 或いは、「おまえはーーだよ」と輪郭を与えてくれる他者の存在である。

 チンド犬、と説明された犬の本当の名前にウォノは行き着く。それは同じくして、ラクの正体に行き着くことでもあった。また、その正体というのは、ラクが長年追い続けていた”イ先生”であったという真実のみではなく、ラクがあのスプートニク号に乗せられたばかりにあらゆる物事から切り離されてしまった受難犬、「ライカ」そのものであったことを暗示させる。ラストの雪原で叫ばれた「ライカ!」という呼び名は、あるいはラクの真名のようにすら聞こえる。勿論ウォノは、あの犬を呼んでいるのだ。しかしシーンとしては、あれはラクを呼んでいるのに、正しく等しい。

 長い年月の果てにーー少なくともライカの怪我がすっかり治ってしまうほどの時間の果てに、恐らくウォノは「この世は腐っている」ことを身に染みるように実感したはずだ。掬っても掬ってもこぼれ続けてしまう哀しみと、それを食いものにする人間達にあるれている世の中。それに立ち向かうはずが、どうしても上手く回らない社会と自分。

 刑事を辞めたウォノの表情は恐ろしく静かだ。それは砂漠を知ったあとの人間の顔だ。ウォノがラクに発する「幸せだったことがあるか」という問いに込められた哀しみに、観客は息を詰めざるを得ない。ただ、それを受けるラクはあまりに虚無に慣れ親しんでいる。ラクはもうずっと長い間、砂漠に住んでいるのだ。(そういう意味でも、彼が雪原に引きこもっている演出は象徴的といえる)

「아니요(いいえ)」とラクが答えたとき、あの銃声はウォノが自らに向けて発したものだと私は捉える。腐ったこの世の淵を舐め、それを正しく理解してしまったあとに澄んだ心が生きて行くには、薬に手を出すしかない。それか、生きていることをやめるかである。個人的に、映画そのものとしての正規の読みは、あの一発の銃声はウォノが自殺した際のものではないかと思う。

 ただ、もしそうでなかったら。

 「아니요(いいえ)」ではなく、ラクが別の言葉を口にしていたら。

 振り返れば茶番でしかない潜入捜査の時間、自分を頼るしかない非力な、それでも必死な信念のためになりふり構わずに突っ走る馬鹿な人間の横に立って彼を助け、また名を呼ばれたことに、幸福というルビを振ることがもし、少しでも許されるのだとしたら。

 ラクの頭の真横を掠めた銃弾が埋まる壁のある部屋で、互いの輪郭を形作っていく二人とそれをはしゃいで見守る塩工場の姉弟がいる風景があるかもしれない。そういう願いの余白を、この映画は残している。

 副題であるBELIEVERとは、一体どこに掛かるのだろう。一見、信頼関係の綱引きを行う「信じる者」或いは「信じたい者」を背負うラクとウォノ、彼らのことを表しているようである。しかしあのラストを思い返せば、雪景色の中に鳴り響いた銃声の在りどころに、または搾取と暴力が渦巻く腐ったこの世界に、それでも、どうか幾許かでも愛を信じたいと願う私たちのことなのかもしれない。

 

 

ノーパン神父

2015年発行 BL俳句誌「庫内灯」寄稿

 

ノーパン神父     かかり真魚

炎天や蒼目のわかき闘牛士

死を掠め赤らむ頬のカンナかな

凌霄を散らす自慰せよ美青年

屠殺屋とをどるCha−Cha−Chaや夏の果

昼火事のごときノーパン神父来ぬ

冬晴や歯型の残るロシアパン

道徳を越へてほむらの夜鷹たり

投げつける美男葛の無力さよ

眼を病みし君と片世の野焼きかな

牡蠣剥けりタナトス・ブギー止まぬ家

 

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 BL俳句誌「庫内灯」の創刊号に寄稿した連作。

 ノーパン神父はわたしの好きな思想家ジョルジュ・バタイユがモデルです。