彗星のてんぷら

あげたての星からはイマージュの匂いがする

アバウト・ア・ガール

 だからナタの持ってくる仕事は嫌だったんだ、とユンジェは血で開きにくくなった目をしばたかせながら思う。半覚醒した身体は重く、口の中が鉄っぽく粘ついている。
 最初から嫌な気がしていた。いつぞやの借りがなければ、あの慇懃無礼を絵に描いたような女の依頼など絶対に受けなかった。否、ユビン姉さんの紹介でなければ受けなかった。違う。ユビン姉さんの紹介だから、自分は受けざるを得なかった。
 周囲の酸素が薄く、ユンジェは喘いだ。このままでは窒息してしまいそうだ。だが、このセダン車が目的地に到着する前に窒息死していた方が、実際は幸福なのかも知れなかった。麻袋に詰められ、トランクに押し込まれた人間の末期などたかが知れている。
 ナタが寄越したキャリーケースの中身をユンジェは詮索しなかった。どうせ碌でもないものだ。キャリーケースを受け取ったユンジェは、車で五島列島まで向かった。かつて隠れキリシタンの集落だった小さな村に残る石造りの教会が待ち合わせ場所だった。県の指定有形文化財だという石造りの教会は思っていたよりずっと小さかったが、足を踏み入れると感慨深いものがあった。
 教会の中は資料館になっており、弾圧時代の長崎のキリスト教信仰に関する史料が並んでいた。時間潰しも兼ねて一通り眺め、飽いて古い木製の椅子に座ってぼうっとフレスコ画を見ていると、ふいに十五歳くらいの少女が現れた。彼女は一直線にユンジェに向かって歩いてくると、自分が今回の引取人だと告げた。驚いたユンジェはユビン姉さんに電話をかけたが、冷たく「早く渡して」とだけ言われ切られてしまった。
 良く分からない仕事だった。ユンジェの元にやってくる仕事はいつも良く分からない。巨大な絵画のような謀略の、ほんの端っこの絵の具の流線だけにしかユンジェは関わらない。ユビン姉さんの手先として小金を稼ぐしか生きる術を持たない自分は、ただ右のものを左へ、左のものを右へ移すだけだ。そして往々にして、このように殺されかかったりする。
「でも、結局生きて帰って来るでしょ。そんなに悪運が強いなら、もっと大きなことをすればいいのに」
 ユビン姉さんの恋人のジウは、長い髪を掻き上げながら焚きつける。
 ねえユンジェ、私たち二人でユビンを裏切ってやろうよ。
 あの子、自分が裏切られるだなんて考えたこともないに決まっている。
 びっくりして、わんわん泣いちゃうかも知れない。
 あなた、見たくない?
 艶めいた視線を投げかけるジウの薄いまぶたに輝くゴールドのラメをユンジェは眺める。濡れたような光はミステリアスだが、幼い顔立ちからは少し浮いている。そういうところが可愛いと思う。
「俺の人生を、痴話げんかのダシにしないでくれますか」
「ユビンったら、私のミッフィーちゃんの携帯置きを捨てちゃうんだもん! 傾いていて充電が遅くてミッフィーちゃんである以外なんの取り柄もないところがすごく気に入っていたのに!」
「アレ壊れてましたよね」
 鋭く言ったユンジェの言葉には答えず、ジウはガラスケースに並べられた万年筆に視線を移す。しかし、うっすらと尖った唇に、確かに自分の言葉が伝わっていることをユンジェは見て取る。
 そうだった。スティピュラの新作を見たいと喚くジウのために、あの日は高級文房具店へと車を出したのだ。驚くほど精密で美麗な万年筆と、ミッフィーちゃんグッズを集めるのがジウの趣味だった。
 恋人と喧嘩中だと騒いでいたくせに、いつの間にかジウはふんふんと鼻歌を歌い始めている。どうせ今晩にでも彼女たちは仲直りするだろう、と思いながらユンジェは自分では到底使う気も起きない文房具を眺める。宝石のように並べられた万年筆は他人行儀に、ガラスケースの中で澄ましている。
 結局、当初の目当てとは別の、琥珀色のセルロイドのボディーが美しい万年筆をジウは購入した。
 ドンッ、と車が大きくはねて、再び微睡みかけていたユンジェは目を覚ます。夢うつつの中で、今さっきまで聞いていたジウの鼻歌を思い出す。ボーカルが自殺した有名なロックバンドの曲だったが、タイトルは分からなかった。
 自分も死んだらジウに愛されるだろうか、とユンジェは麻袋の粗雑な肌触りを感じながら考えた。だが直ぐに「えーっ、ユンジェ殺されちゃったの? 可哀想だね」としんみり言うジウを慰めながら、彼女にぴったりと身体を寄せるユビン姉さんの姿を想像して、いやだめだ、と思う。自分なんかが死んでも、二人のセックスの適当なスパイスにされて終わる可能性が大だ。かなりの大。それは避けなければならない。
 帰らなければ。
 この車がどこに向かっているのか、いつ目的地に到着するのか、ユンジェには見当も付かない。だが、それは大した問題ではない。キャリーケースの中身と同様、碌でもない場所ということだけは確かだからだ。
 ユンジェは麻袋の中で身体を捻り、何とか仰向けと呼べる程度にまで体勢を整える。両手が胸の前で縛られているのは幸いだった。プラスチック製の細い結束バンドが巻き付いた手首はひどく痛んだが、背後で括られているよりかは自由が利く。背中をトランクの底に押しつけて横たわると、車体の揺れをダイレクトに感じる。車はかなり路面の悪い場所を走っているらしい。時折バウンドするように身体が跳ね上がった。
 ユンジェは慎重にバランスを取りながら、スニーカーの中で右親指を動かす。靴の中を探っていき、縫合部分に隠した硬いピンを見つける。爪を使って思い切り斜めに押し上げると、仕掛けナイフを表に出す。パチン、と軽い音がしてロックが止まる。刃渡り四センチにも満たない、極小の刃物だった。
 映画『007 ロシアより愛をこめて』に登場する女大佐、ローザ・クレッブが穿いていたような仕掛け靴。映画に出てきたのは革靴だが、ユンジェは自分の好みに従いアディダスのスニーカーを改造した。
 単独行動を基本とするユンジェは、自分で身を守るより仕方がなかった。とは言え、手足がひょろ長いばかりの体格は屈強さに欠ける。必然的に、身に付けるガジェットばかりが増えた。スパイグッズさながらの飛び道具について、ユビン姉さんからは「映画の観すぎ」と寒々しい視線を投げられることもあったが、役に立つのだから仕方がない。苦言を呈するユビン姉さんが、だからといってユンジェのピンチに駆けつけてくれるわけではない。
 ユンジェは自分を傷つけないように用心しながらナイフを麻袋に押しつけ、ゆっくりと切り込みを入れていく。身体が跳ねるタイミングで上手く麻袋を回し、出来るだけ大きな穴を開ける。麻袋は分厚く切りづらいが、辛抱強く作業を続けた。何とか麻袋から脱出する頃には、ユンジェの全身は汗びっしょりになっている。トランクの中は作業には向かない。そんな当たり前のことを思いながら、今度は刃を出したままのスニーカーを脱いだ。これで腕に巻かれている結束バンドを切れば、四肢が自由になる。
 あともう少し、と溜息を吐いた瞬間、車体が大きく揺れた。踏ん張り損ねたユンジェはトランクの中を転がる。車が急停車したのだ。
 強かに頭をぶつけたユンジェは焦った。作業に熱中するあまり、目を覚ましてからどれくらいの時間が経過したのかまるで意識していなかった。時間感覚の喪失は痛手だ。
 ユンジェはトランクのどこかに転がったスニーカーを探す。が、暗すぎて何も見えない。両腕はキツく縛られていて、腕を伸ばしたくても不可能だ。
 ユンジェは思わず舌打ちし、まとめられたままの両拳を床に打ち付けた。

 

 『緋の姉妹』がどれほどの規模の組織なのか、ユンジェは知らない。だが、朝鮮半島と日本を拠点に跋扈する犯罪組織で、今からたった三年ほど前に出来上がったというのは確かだ。トップを張るのは、ユビン姉さんとジウの二人。女性を頭領に掲げる犯罪組織は、その構成員のほとんども女性で占められているらしい。らしい、と言うに留まるのは、構成員たちが一同に会する機会はなく、ユンジェ自身会ったことのない者がたくさんいるからだ。彼女たちは表向きはごく普通の生活を送っており、必要な場所で必要な仕事を請け負うことで組織に貢献していた。ユビン姉さんはこの在り方を「ゆるい連帯」と呼んでいた。
 だが、闇組織と言えば『ゴッド・ファーザー』や『仁義なき戦い』のように疑似家族的な強い絆がセオリーである。並外れた欲望と危険が渦巻く世界だ。互いに盃を交わし、相手を懐に抱いてようやく成り立つものがあるのではないか。ユンジェにはユビン姉さんの考えが理解できなかった。「スマッシュ・ザ・ペイトゥリアーキィ」というのがユビン姉さんの信条だった。
「叛逆を心配しているな」
 構成員をもっと厳しく管理したほうが安心ではないか、とユンジェが尋ねたとき、ユビン姉さんはそう言った。ユビン姉さんの髪がまだ長かった頃だから、二年ほど前のことだ。
 ユンジェとユビン姉さんは、自宅兼オフィスにあたる都市部の高層マンションの一室にいた。ユビン姉さんはオンライン上で構成員たちに指示を出し終わり、ユンジェにジャスミンティーを持ってくるよう言いつけたところだった。
 ユンジェがユビン姉さんの部屋に入ることは稀だが、偶に一緒に茶を飲む日があった。黒色のインテリアで統一された部屋はホテルのように洒落ていて、ユンジェは内心いつも落ち着かなかった。クッションから観葉植物から何に至るまで、隙がないのだ。壁にはユンジェの知らない現代画家の絵画が一枚掛かっていた。抽象的な表現で何が描かれているのか皆目分からなかったが、目の醒めるような赤色にじわりと滲んだ黒緑のインクを眺めるとき、ユンジェはいつでもトマト缶の海で溺れるオットセイを思い出した。
「そんな野放しで危なくないんですか」というユンジェの質問に、ユビン姉さんは腰掛けていた高級事務用椅子をリクライニングにした。そうすると、綺麗に手入れされた睫毛がよく見えた。
「心配ご無用だね」ユビン姉さんは目を閉じながら言う。
「何で、そんな自信あるんですか? 敵対する誰かに取り込まれるかも知れないし、下克上を企む奴がいるかもしれない」
 結社されて間もない『緋の姉妹』には、至るところに敵がいた。仕事上の利害関係は元より、闇社会で女性ばかりの組織が幅を利かすこと自体に反感を抱く人間も多かった。現にユンジェは、そういう噂をかなり知っていた。
 ユンジェが思いつきで話しているのではないらしいと察したユビン姉さんは、少し考える素振りを見せた。
 しかし結局、ユンジェは明確な答えを聞けなかった。ただ「アンタが思うほど、女は社会を信用していないから」と、ユビン姉さんは言い切った。
「それにそんな馬鹿じゃない。私も、あの子たちも」
 ユンジェは良く分からず、「はあ」と間の抜けた言葉を返した。

 

 水を頭から被ったユンジェは目を覚ます。一瞬溺れるような息苦しさがあり、次いで遠のいていた痛みを思い出す。まだ鋭利さの残る三月の冷えた潮風は、手加減もなく吹き荒んでいる。散々痛めつけられた身体は怠く、火照ってさえいたが、同時に背筋は凍えるほど寒かった。ユンジェは焦点の合わない目で周囲を見渡した。空も海も墨で洗ったように真っ暗で、夜明けの気配すらなかった。
 車のトランクから引きずり出されたユンジェは、今度は中型の釣り用船舶の看板に転がされていた。海水に濡れた看板はぬめつき、独特の青臭さがあった。思わず噎せると、ついさっきまで砂袋のように扱われていた身体が悲鳴を上げた。脱走に失敗したユンジェは、更に厳重に縛られていた。後ろ手に拘束されると、肩が抜けそうに痛む。
 ユンジェは、鼻水とも鼻血とも知れない液体が唇を濡らしていくのを感じながら瞬いた。厄災からはまだ解放されない。早春の漁船に乗せられたのは、これから獲れたての鮮魚をご馳走してもらえるからでは決してない。
 船の看板には、二人の男が立っている。ガッチリした体格の良い中年の男と、中肉中背の若い男。更に先ほどは小太りの男の姿も見えたが、今は船の操縦席にいるのか見当たらない。いずれも釣り船には不似合いなスーツを着ている。シャツに好みが出るらしく、中年は落ち着いたダークブルーのカッターシャツ、若い男は大柄の牡丹が描かれたバンドカラーシャツを選んでいた。
「思い出したか?」
 若い男が、足元にバケツを落としながら問う。粘っこく高い声が耳障りだった。
 ユンジェは尋問の内容を一瞬思い出せなかった。だがすぐに、自分が足を踏み入れたあの美しい五島列島の教会が頭に浮かんだ。赤煉瓦造りのゴシック建築、椿をモティーフにした珍しいステンドグラス。彼らは、先日ユンジェが引き受けた仕事について嗅ぎ回っていた。キャリーケースの中身の行方を捜しているのだ。
「ボスがだいぶご立腹でな」
 恫喝する部下を諫めるように、中年が肩を竦めた。やれやれ、という雰囲気には、組織の下っ端同士お互いに苦労するよな、という同情じみた甘言が混じっている。
 中年は懐をまさぐると、しわくちゃのソフトケースから煙草を取り出した。大儀そうに咥えたところで、若い方が即座に火を差し出す。
「オレたちだって、別にアンタが好き好んでそんな仕事をしてるとは思っていない。女どものパシリなんざあ、喜んでやることはねえよな。兄ちゃん、これは一種の取引きだぜ」
 煙草の煙を吐き出した中年が言う。ユンジェは夜闇に流れる煙を見ながら、この世で最後まで煙草を吸い続けるのはヤクザかも知れないなと思う。
 ユンジェがそのまま黙っていると、中年は引き攣ったように笑った。無視されたことに気分を害したらしい。再び煙草の煙を吸い込むと、さっきも言ったけどな、とやや声を低くした。
「あのキャリーケースには、ボスの大事なモンが入っていた。それをコソ泥に盗まれたとなりゃあ、流石にこっちも黙っていられねえ。面子もあるしな、何よりボスが塞ぎ込んじまってよ。お陰で何人か腕が飛んだぜ。オレたちも危ないところだったが、幸いアンタを見つけられた。難しい話じゃない、受け取ったキャリーケースを何処にやったのかさえ教えてくれたらそれで良いんだ。何度も言うようだが、悪い話じゃねえ。というのも、オレはアンタを生かしておくつもりだからさ」
「へえ」
 ユンジェは相槌を打ってしまう。こっちが恥ずかしくなるような白々しさへの嫌味だったが、中年には伝わらなかったようだ。中年はユンジェが乗り気になったと思ったらしく、口端にニヤニヤした笑いを貼り付けると鼻の穴を膨らませた。高く打ち付ける波の音を背負い、中年はゆったりと胸を逸らる。
 中年は、オレが世話してやっても良い、と粘っこく言った。
「アンタ、『緋の姉妹』のユンジェだろ? こっちの世界でも噂は回ってる。インポの世捨て男が、女どもにこき使われながら尻尾振ってるってな。もしくは、レズビアンに挟まってるラッキーな男がいると。ははっ、元は堅気の人間だったんだろ? とんだ災難に見舞われたもんだな。しかも落ちた先が良くなかった。なんで選りによってソコなんだ? アンタもいい加減うんざりしているはずだ、女なんかに顎で使われてよ。オレは気の毒に思ってるんだ。だから素直に情報をこちらに流すなら、オレからボスに頼んでやる。コイツはただ巻き込まれただけなんです、ってな」
 巻き込まれたというのは合っている、とユンジェは思う。だが、果たして本当に『だけ』なのかは、知れなかった。
 五島列島の教会でキャリーケースを引き渡した少女のことを話せば、男たちは納得するのだろうか。或いは、恐らくは足取りを追えなかったであろうナタのことを話せば褒めてもらえるのか。ユンジェは、中年が自分に謀反を勧める一番の理由を知っている。ユンジェを手中に落とせば、『緋の姉妹』に入り込んだスパイを手に入れられるからだ。ユンジェを利用すれば、気に入らない女どもに痛い思いをさせられ、更に組織での株も上がって一石二鳥と言うことなのだろう。
 ユンジェは目を閉じた。そして、ジウの顔を思い浮かべる。広い額、胡桃のように大きな目、少しばかり低い鼻と薄くてつやつやで血色のいい唇。
「ねえユンジェ、私たち二人でユビンを裏切ってやろうよ」
 聞き慣れたジウのいたずらっぽい声が聞こえる。いつぞやの文房具店で、深夜のコンビニエンスストアで、お気に入りの台湾茶の店で、雑貨の並んだキディーランドで、そうやってジウはいつもユンジェを確かめた。容易く繰り返される言葉。
 だが、それが言葉通りの意味を持っていたことはなかった。少なくとも、言葉通りの意味としてユンジェが受け取ったことはなかった。本人は無意識かも知れなかったが、ユンジェは寄越される軽口の中にいつでもジウの不安を感じ取っていた。


 ねえユンジェ。あなたは、ユビンを傷つけたりしないよね?
 あなたは、私たちを痛めつけたりしないでしょ?


 目を開ける。ユンジェは横たえていた身体を持ち上げると、ふらつきながら立ち上がった。後ろ手に縛られているせいで、真っ直ぐな姿勢は取れない。
「断る」
 短く言うと、途端、若い男に二発殴られた。頬と鳩尾に強烈なパンチを食らったユンジェは、再び看板に転がった。
「てめえ、親切にしてもらってんのを仇で返すんじゃねえよ」
 親切にしてくれと頼んだ覚えなどない、とユンジェは今の一撃でグラついた奥歯を舌で触りつつ思った。そもそも、こんなに殴られて親切も何もあったものではなかった。
 中年がまたも笑い声を上げる。怒りを孕んだ声は高く引きつっている。中年は倒れ込んだユンジェに慇懃そうに近づくと、革靴を履いた足でユンジェの股間を踏みつけた。
 顔を歪めたユンジェの息遣いを楽しむように、中年が言う。
「アンタは勘違いしているようだが、これは厳密に言えば提案じゃない。選択肢は一つ。オレたちに付いてくることだな、それが一番賢明だ。それとも三人でやるセックスがそんなに良かったのか? 確かに、愛し合う女たちをまとめて抱くのは快感だろうな」
「ゲスは脳みそが小さくて困る」
 ユンジェが笑い飛ばすと、股間への負荷が段違いに強くなった。本当に踏み潰されそうな痛みを覚えたユンジェは身を捩った。次第に、後頭部に汗が滲み始める。遂にユンジェは観念したように、分かった、分かったと声を上げた。
「じゃあ、良いんだな?」中年の目の奥が光った。
 良い訳あるか、クソが。
 踏みつける力が弱まった隙を見逃さず、ユンジェは中年が軸足にしている左足の臑を思いっきり蹴りつけた。物騒なスニーカーは没収中なので、容赦なく踵を使う。
「お前らと話していても拉致があかない、という意味な」
 中年が呻いて倒れ込んだ隙に、ユンジェは起き上がる。無様に転んだ上司の姿に血が上ったらしい若い男が、血気盛んな声で喚いている。懐に手を差し入れ、何かを取り出した。ナイフか、鉈か、はたまた拳銃か。だが、確かめるまでもなかった。土台、フェアな状況ではない。やり合う必要は皆無だった。
 ユンジェは船を取り囲む暗い海へ視線を投げる。墨汁を思わせる海はどこまでも深く、光を吸い込んでいる。時折、船の照明に照らされた海面にてらてらとした影が映り込み、怪しく揺れていた。三月の潮風は耳先が痛くなるほど寒い。海に入れば尚更だろう。だが、この釣り船の看板よりかは確実に居心地が良いはずだ。
 ユンジェは腹を決めると、船の外に飛び降りた。

 

 自分の人生を決定づける瞬間の到来を、自覚できる人間のほうが少ないだろう。大抵の人間は事が起こった後に、変容が訪れた後に、自分がこれまで立っていた場所からすっかり隔たれてしまったことに気付く。失った道へは戻れない。羽化した虫が蛹に返ることはないように、人はどんなときでも変化を受け入れて、転がって行かざるを得ない。
 ユンジェにとって運命の一瞬と呼べるのは、やはり四年前の八月だ。息苦しい熱帯夜で、しばらく雨の降っていない都内の空気は塵を抱え込み淀んでいた。
 当時ユンジェは、都内を走り回るタクシーの運転手だった。適当に高校を卒業した後、母親の知り合いの土木関係の仕事を紹介されたが馴染まず退職し、二番目に就いた職業だ。ユンジェはタクシーの運転手の仕事を、好きでも嫌いでもなかった。ただ仕事をしているうちに、人が生きると言うことは概ね、移動することとイコールなのかも知れないと感じるようになっていた。その点で、ユンジェは当時から運び屋だった。誰かをどこかに運ぶための仲介者。
 二人組の女を乗せたとき、特別な違和感はなかった。ただ双方とも、とても華やかな格好だったのをユンジェは覚えている。年上らしい女は肩紐の細いクラシカルなエメラルド・グリーンのパーティードレス、ユンジェと同い年くらいの女は肩を出したデザインの刺繍が細かい白いパーティードレスを着ていた。
 二人は支え合うようにして、後部座席に乗り込んできた。
「どちらまでですか?」
 ユンジェは行き先を聞いたが、急いたように「取りあえず出して」と言われたので車を発進させた。どこかの高級ホテルの前だったように思う。
 それから随分と長い間、ユンジェはエメラルドグリーンのドレスの女の指示に従って車を走らせた。漠然とした目的地があるような、ないような不思議な走行だった。わざと遠回りをしているような節さえあった。女が最終的に示した目的地は、四国だった。どう考えても、これから旅行に行く格好には見えなかったが、ユンジェは詳細を何も尋ねなかった。ただ、途中で車に酔った若い女のために何度か休憩を挟んでやった。飴を舐めておくと酔いづらいんですよ、と言ってクランベリーミントのキャンディーをあげた。
 徳島駅に到着するときには、既に空は白んでいた。女たちはクレジットカードで料金を支払い、朝靄の中に消えていった。
 その後のことは思い出したくもない。それから一週間もしないうちに、職場と自宅に妙な男たちが現れるようになった。男たちはとても堅気には見えず、そしてユンジェが乗せた二人の女を捜していた。クレジットカードの履歴から割り出したユンジェこそが、二人を最後に見た人間なのだという。非常に格調高い家柄の令嬢とその家庭教師が起こした逃亡劇の共謀として、ユンジェは挙げられた。事情を知らないことは理由にならなかった。男たちの訪問と暴力から逃れるため、ユンジェは出勤できなくなり、自宅にも帰れなくなり、屋根付きベンチのある公園などを転々と渡って生活するようになった。
 年末。教会で行われた炊き出しに行った帰りに、ユンジェは偶然あの日タクシーに乗せた女の片割れに出会った。若い方の女で、今はドレスではなく灰色のチェスターコートを着ていた。冬だというのにサングラスを掛けていて、それが悪目立ちしていた。
 女の方もユンジェに気付いた。女は薄汚れたユンジェの姿に一瞬驚いた表情を浮かべ、続いて「あっ、ア、そっか、あーっそっかあ!」と合点するまで声を出した。女は垢の浮いたユンジェの腕を強引に掴むと、そのまま自分が乗るタクシーに同乗させた。
 次にあの女たちに会えば自分は恨み言を言うだろうか、とユンジェは寒空の下でよく思いを巡らせていた。しかし、実際に顔を合わせてみると、そういう気にはまるでならなかった。あの夏の日、バックミラー越しに見た彼女たちの、やがて綻ぶことを決めた花の蕾を思わせる凜とした、同時に不安を押し殺したうつくしい顔をユンジェは忘れられなかった。
 逃げるのはいいことだ、とユンジェは思った。縫い付けられた場所が、自分にとって適切な場所とは到底限らない。特に、立場の弱い者であれば尚更だろう。
 タクシーの狭い車内には女がつけているバニラの甘い香水の匂いが灯っていて、目的地に着くまでの間、ユンジェは久しぶりに熟睡した。

 

「またジウが喜ぶじゃないか」
 泥だらけになって帰って来たユンジェを見たユビン姉さんは、バスタオルを寄越しながら言った。いつもどおり綺麗に化粧を済ませているが、明け方まで仕事をしていたのか、目の縁がほんのりと赤い。ユンジェは不死身を冠する下っ端としての報告と、若干の当てつけを兼ねてユビン姉さんのところに直行していた。
「ご期待に添えて何よりです」
「両手を縛られたまま海を泳いで来たんだって? 惚れ惚れする身体能力だね」
 どこから情報を手に入れたものか、ユビン姉さんはユンジェがどんな目に遭ってきたのか既に知っていた。大方、身を潜ませていたナタの情報網からだろう。
「海面から顔を出すタイミングさえ間違わなければ、そんなに難しくないですよ。それに本当に海を渡ってきたんじゃない。朝釣りを楽しんでいた休日のサラリーマンたちの船が運良く通ったんで、助けてもらいました」
「労働者の休暇をかき乱したな」
 早くシャワーを浴びろ、磯臭さが壁紙に移る、と急かされてユンジェは湯を借りた。熱いシャワーを浴びると、凍てついた身体がゆっくりと解れていく。浴室から出ると、ユビン姉さんがユッケジャンクッパを作ってくれていた。牛肉の旨味がスープに溶け込んでとても旨かった。ユンジェが意気込んで褒めると「レトルトだから黙って食え」と叱られた。
 腹が膨れると、ユンジェは猛烈な眠気を覚えた。自分の部屋に戻ってベッドに倒れ込み、死んだように眠りたかった。死ぬのは嫌でも、死んだように眠りたいと思うのは普通の願望だった。
 部屋から出る直前、ユンジェはユビン姉さんから小箱を渡された。柔らかなフロッキング調のそれは、指輪ケースだった。
「ついに、ジウにプロポースするんですか?」
「もう済ませてある」
「……」
「傷付くなら自分で言うなよな、面倒くさい」
 ユビン姉さんは顔をしかめた後で、それがユンジェが運んだ例のキャリーケースの中身だと説明した。
「軽いとは思っていましたが、指輪でしたか。もっと小さい鞄で運べば目立たなくて済みましたね」
「それは加工後。お前が運んでいたときは遺骨だよ」
 ぎょっと身体を強ばらせたユンジェに、ユビン姉さんの口角が少し吊り上がる。
 今回の依頼主は、とある資本家のお抱え愛人にされていた女性の妹で、急死した姉の遺骨を取り戻して欲しいという内容だった、とユビン姉さんは手短く話した。
「何でも、幼い頃に両親と死別した姉妹らしくてね。お姉さんの方は早くから夜の仕事を始めて、それで妹の大学費用まで稼いだ。ただ途中で、性悪資本家に気に入られて逃げられなくなったらしい。妹は同じ都内に住んでいるにも関わらず、何年もお姉さんに会えなかったそうだ。そして、このあいだ突然急死の連絡だけが届いた。理由は聞いても教えて貰えなかった。亡くなる数週間前、お姉さんから直接、逃げ出したいという留守番電話が妹あてに入っていた」
「それじゃ、五島列島で俺が会った女の子がその妹ですか?」
「あれも仲介人。依頼人じゃない」
 ユンジェがケースを開けると、ダイヤモンドの指輪が入っていた。〇.二カラット程度の小振りな宝石が、美しいブリリアントカットに削られ填め込まれている。遺骨の炭素を使ってダイヤモンドを作る技術があることはユンジェも知っていたが、実物を見るのは初めてだった。全然碌でもないものではなかったな、とユンジェは反省した。
「足が付かないように根回ししておいたのに、どこから洩れたんだか」
「俺のことしか分かってないみたいでしたよ」
「じゃあ、別にいっか」
「良くないです。今後の身の安全を保障してください」
 ユンジェが言うと、ユビン姉さんは考えておく、と応えた。それから思い出したように「でも生きている限り、本当の身の安全なんて担保されないもんだよ」と重ねた。
 ユビン姉さんはユンジェに、早く自分の部屋に帰って寝るように言いつけた。とにかく眠りなよ、すごい顔だから。
「ちなみに、今晩はジウのロシア語過程が終わったお祝いだ。ぱあっと美味しいものでも食べに行こう。ユンジェは車をお願い。上手に運転できたら、ご馳走してあげるのも吝かではない」
「焼き肉にしましょう、絶対に」
 ユンジェは力強く言ってから、ユビン姉さんの部屋を出る。

 

 終