彗星のてんぷら

あげたての星からはイマージュの匂いがする

シャブ漬けにうってつけの世、あるいはスプートニクの犬

 映画『毒戦』を観てきた感想。二回観に行きました。

 

 1957年の11月3日にソビエト連邦が打ち上げた世界初の宇宙船スプートニク2号に乗り、有人宇宙船の実現へと導いた伝説の犬の名を『ライカ』という。

 語り継がれた挙げ句、今では擦り切れた話であるが、この宇宙へ旅立った夢の先立ち者のように言われている犬は正確に言えば人間のエゴイズムに振り回された挙げ句、使い捨てにされ壮絶な死に方をした受難犬である。ライカは本来、モスクワあたりをさまよっていた只の野良犬であった。

 『毒戦 BELIEVER』では最初、合成麻薬の名前として登場するこの名称は、やがては工場爆破の際に重傷を負った、ラクが可愛がっていた犬の名前だと判明する。ライカ、と言う名前を知り得、更にそれを呼ぶ者として雪原に立つ小さな小屋の中でラクとウォノが向かい合うラストは、まるで地球から切り離された孤独なスプートニク号そのもののように見える。

 観る前の印象は『毒戦』という禍々しい名前も相まって、韓国映画お得意の狂気走ったノアール映画なのだろうと思っていた。結果としてその予想は正しかったが、派手なアクションや身が縮むような暴力シーン、急展開のサスペンスといった充実したノアール要素の裏側に、非常に繊細な哀しみと狂おしいまでの希求が<張り付いている>映画だった。

 冒頭でおとり捜査に使おうとしていた顔なじみの少女が言う「世の中腐ってる。だから薬をやるんだ」という言葉は先達として、この映画を引っ張っていく。韓国最大の麻薬組織に君臨する支配者にして誰もが姿を知らない”イ先生”を追う麻薬取締班の刑事ウォノは、イ先生によって起こされたという工場爆破事件の生き残りであり、バイヤーとの通信役でもあったラクをチームに引き入れて事件を追っていく。

 映画を通して描かれるウォノとラクの信頼関係の綱引きが、この映画の醍醐味である。刑事としての非情さを持ってラクに接しなければならないウォノが、それでもラクに信頼を寄せてしまいそうになる揺らぎ。一方「あなたを信じます」と拾われた子犬のように一貫してウォノに協力的な姿勢を見せるラクの姿と、他方それを疑わざるを得ないような事態の発生。二人の間にぴんと張られたワイヤーの、手を触れたらたちまち指が落ちてしまいそうなほどの鋭さと切なさを携えた共振が露わにされていく。

 ウォノが身に付けなければならない非情さは、悪に立ち向かうゆえであった。しかし、故に内心では可愛がっていた顔なじみの不良少女に優しくすることも出来ず、遂には捜査に利用した挙げ句命を落とさせる羽目になる。行き場のない少女を助けるどころか、彼女を傷つけ搾取する側に立ったのはウォノ自身だった。

 彼女の弔い合戦のように捜査に打ち込むウォノは、また同じようにラクに対しても素直に心を明け渡すことが出来ない。哀しみに濡れながらも芯の強いラクの姿に心惹かれ、信頼関係を築いていきながら、それを表出することも、まして認めることも出来ない。

 一方でラクの出生の秘密は、ウォノの中で自分のせいで死んだ少女と重なるものだっただろう。麻薬組織に組み込まれた生活をせざるを得ないラクは、最初から多くを奪われた流浪の人間だった。誰からも切り離されて、点滅する生命。この重なりは、二重になった秘密の最後の一枚扉が開くときに顕著になる。

「世の中腐ってる。だから薬をやるんだ」

 多くのものを奪われながら生きざるを得ない、哀しみを抱いた人間たち。彼らは暴力と金と薬物の前に、更に搾取され、ぼろぼろに傷つけられる。真実よりも体裁が先行する社会も、優しさよりも目的を取らざるを得ない矛盾も、この膿んだ社会では当たり前のことなのだ。

 追い求めていたイ先生と今回起こった事件の首謀者が別人であるということが露わになっていくのと同じくして、ラクが繰り返し言う「僕は誰ですか」という存在の不確かさと途方もない虚無が物語に浮かび上がってくる。

 自分が何者であるのかを定義づけられるのは、自分しかない。

 或いは、「おまえはーーだよ」と輪郭を与えてくれる他者の存在である。

 チンド犬、と説明された犬の本当の名前にウォノは行き着く。それは同じくして、ラクの正体に行き着くことでもあった。また、その正体というのは、ラクが長年追い続けていた”イ先生”であったという真実のみではなく、ラクがあのスプートニク号に乗せられたばかりにあらゆる物事から切り離されてしまった受難犬、「ライカ」そのものであったことを暗示させる。ラストの雪原で叫ばれた「ライカ!」という呼び名は、あるいはラクの真名のようにすら聞こえる。勿論ウォノは、あの犬を呼んでいるのだ。しかしシーンとしては、あれはラクを呼んでいるのに、正しく等しい。

 長い年月の果てにーー少なくともライカの怪我がすっかり治ってしまうほどの時間の果てに、恐らくウォノは「この世は腐っている」ことを身に染みるように実感したはずだ。掬っても掬ってもこぼれ続けてしまう哀しみと、それを食いものにする人間達にあるれている世の中。それに立ち向かうはずが、どうしても上手く回らない社会と自分。

 刑事を辞めたウォノの表情は恐ろしく静かだ。それは砂漠を知ったあとの人間の顔だ。ウォノがラクに発する「幸せだったことがあるか」という問いに込められた哀しみに、観客は息を詰めざるを得ない。ただ、それを受けるラクはあまりに虚無に慣れ親しんでいる。ラクはもうずっと長い間、砂漠に住んでいるのだ。(そういう意味でも、彼が雪原に引きこもっている演出は象徴的といえる)

「아니요(いいえ)」とラクが答えたとき、あの銃声はウォノが自らに向けて発したものだと私は捉える。腐ったこの世の淵を舐め、それを正しく理解してしまったあとに澄んだ心が生きて行くには、薬に手を出すしかない。それか、生きていることをやめるかである。個人的に、映画そのものとしての正規の読みは、あの一発の銃声はウォノが自殺した際のものではないかと思う。

 ただ、もしそうでなかったら。

 「아니요(いいえ)」ではなく、ラクが別の言葉を口にしていたら。

 振り返れば茶番でしかない潜入捜査の時間、自分を頼るしかない非力な、それでも必死な信念のためになりふり構わずに突っ走る馬鹿な人間の横に立って彼を助け、また名を呼ばれたことに、幸福というルビを振ることがもし、少しでも許されるのだとしたら。

 ラクの頭の真横を掠めた銃弾が埋まる壁のある部屋で、互いの輪郭を形作っていく二人とそれをはしゃいで見守る塩工場の姉弟がいる風景があるかもしれない。そういう願いの余白を、この映画は残している。

 副題であるBELIEVERとは、一体どこに掛かるのだろう。一見、信頼関係の綱引きを行う「信じる者」或いは「信じたい者」を背負うラクとウォノ、彼らのことを表しているようである。しかしあのラストを思い返せば、雪景色の中に鳴り響いた銃声の在りどころに、または搾取と暴力が渦巻く腐ったこの世界に、それでも、どうか幾許かでも愛を信じたいと願う私たちのことなのかもしれない。